第118回 吉祥寺の街にも影響アリ?都市計画道路「外環ノ2」に迫る! (2)
























東京外環自動車道

東北道や常磐道で東北・茨城方面に車で行かれる方、利用経験も多いのではないでしょうか。吉祥寺からだと、前回特集した「環八」から谷原交差点で目白通りを左折、または都道444号(東京都道444号下石神井大泉線)を北上して石神井公園経由、比丘尼交差点から大泉ICへ向かうことで利用できます。

ともあれ、東京都23区から埼玉県南部、千葉県西部の三郷方面まで、都心から約15kmの地点をグルリと「外環」する全長33kmの有料道路ですね。

さて、今回も賛否無くフラットに、この「外環道」について見ていきましょう。



外環道=高速道路

なのですが、中央高速、東名高速など、東京から放射状に延びる他の高速道路と異なる点があります。まず目につくのが外環と主に埼玉県区間を並走する一般国道=298号線の存在でしょうか。実は、この298号線と合わせて「東京外かく環状道路」という道路であり、その自動車専用部分を「東京外環自動車道」と呼んでいる訳です。この点、実は重要なポイントです。

そしてさらに

この自動車専用道路=「東京外環自動車道」も単なる呼び名。法的(高速自動車国道法に基づく政令[昭和三十二年八月三十日政令第二百七十五号])には、

    大泉JCT-川口JCT :東北自動車道
  川口JCT-三郷JCT :常磐自動車道
  三郷JCT-三郷南IC:東関東自動車


という3つの高速道路(営業路線名)のハイブリッド道路なんですね。

この点は、圏央道(国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路)とは「3環状」兄弟であっても位置づけが異なります。

あと「営業路線名」と書いたのは法定上の名称と異なるからです。
























■出典:朝日新聞

東北自動車道は、法令上「東北縦貫自動車道弘前線」という名称。ちなみに東名高速道路は「第一東海自動車道」。いずれも営業路線名とは異なります。

そして、それらの根拠法たる「高速自動車国道法」自体も、旧建設省と運輸省間の綱の引き合いの玉虫色の位置づけ。詳しくは触れませんが、このあたり政治・行政に翻弄された高速道路の宿命というべきでしょうか。

ちなみに、先の東名道路の呼称、2012年に開通した「第二東名」の名前は「第二東海自動車道」。第二東名の計画、一般的には降って湧いて出た様に感じられます。しかし実際は東名高速が開通した50年前から「第一」と名乗っている通り、当初計画に折り込まれていたんですね。

ポジでもネガでもなく、フラットにコレが「政治の妙」というヤツなのでしょう。

■出典:第一東海自動車道 Wikipedia 
     
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%96%E7%92%B0%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%BB%8A%E9%81%93



そして、今度は時間軸でみてみます。

開業前の外環、つまり都市計画段階の名称=都市計画道路としての名前は「東京都市計画道路都市高速道路外郭環状線」(東京都区間)となります。「またの名を」ではありませんが、高速道路は、そのプロセスや開業後の法令的にも利害が輻輳してます。

、現在の西側終端は練馬区内の大泉IC(インターチェンジ)です。関越道と外環道が交差する大泉ジャンクションに併設されている、という位置づけですね。関越道はそのまま環八の谷原交差点方面に延び、その終端は練馬ICとなり、大泉ICは2番目のインターチェンジとなります。

■高速自動車国道の路線を指定する政令 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S32/S32SE275.html





さて

この外環道ですが、今後の都市計画では大泉ICから延伸・南下して、中央高速道路と交差し、東名高速道路につながり、さらには東京湾岸道路(首都高速湾岸線)まで繋がる予定となっています。東側も三郷から京葉道路、そして東関道まで繋がる計画とされています。











外環道+東関道+首都高速湾岸線で、まさに東京都区部をグルリと囲む環状道路になります。そして今回注目したいのは、西側の大泉IC~東名高速ジャンクション間の16.2㎞のうち、吉祥寺と関係がありそうな大泉IC~東八道路IC(仮称)の区間となります。

この区間、営業路線的には「関越自動車道新潟線」の一部となるのですが、これと平行して建設される予定の「一般道路」について、となります。

一言でまとめましょう。

将来、関越自動車道新潟線の延伸区間として供用予定の東京都市計画道路都市高速道路外郭環状線に並行して計画されている都市計画道路」について、ということになります。


























ここで理解したいのは、いわゆる「外環道」とは並行している一般道路が、都市計画上は「違う道路」と扱われている点です。この都市計画道路、法的には「東京都市計画道路 幹線街路 外郭環状線ノ2」という名前、略して「外環ノ2」と呼ばれていますので、この特集でも「外環ノ2」と呼ぶことにします。










外環ノ2
 ・名称:東京都市計画道路 幹線街路 外郭環状線の2
 ・区間:
   〔起点〕世田谷区北烏山五丁目(東八道路)
   〔終点〕練馬区東大泉二丁目 (目白通り)
 ・延長:約9km
 ・構造:地表式
 ・車線:規定なし
 ・幅員:40m(標準)


前回特集した他の環状線同様に、この道路の計画発端は古く、時は1960年春。1967年の中央自動車道、1968年の東名高速道路開通に向けて計画段階で議論されたのが「都区内の自動車対策をどうするか」という点。

この時に「都心部を環状に交通分散させるための道路」として構想されたのが外環計画の発端です。当時は、1954年から始まったとされる高度成長期のまっただ中。1955年にはトヨタ・クラウンが発売され、まさに増大する自動車時代の幕開け前夜というタイミングでした。

ルート上は、既に市街化が進んでいる場所もあり、約3000棟の家屋の移設が必要となる、という大規模な計画でした。
























ただし

そんな時代背景もあってか、これだけの事業規模の道路計画にもかかわらず、1966年にかけて3回の都市計画審議会と特別委員会のみを経て、1966年6月の東京都市計画地方審議会で原案通り答申され、翌7月30日には並走する「外環ノ2」と同時に都市計画としてあっさり告示されるという破格のスピード感で計画決定されています。

ちなみに、この都市計画決定プロセスを見る上で注目すべきは

 ①破格のスピード感で計画決定された
 ②増大する自動車交通処理という政策命題に基づく(防災等は含まれず)
 ③並走する外環ノ2も「別の都市計画」として同時に計画決定された


という点です。昭和41年7月30日の建設省告示は3本あり、そのうちの2本が

      告示2430号 自動車専用道路部分
       告示2428号 外環ノ2


に関するもの。

つまり構造的に一体の「東京外かく環状道路」が2本に分割され、都市計画決定された、ということとなります。このことが後世に大きな禍根を残すことになるのですが、この点はもう少し先の特集で触れることにしましょう。



















先の①「破格のスピード感」という点、都市計画決定において住民意向を重視する現在ではとても考えられないですね。ただし当時の都市計画法は大正8年制定の旧法。1968年の改正前のタイミングでした。

つまり、住民への事前説明の義務がないなど、事業者の環境アセスにおいて十分な手続きが必要とされず、事業者の意思が都市計画として通りやすかった、ということになります。

■写真:審議会の画像(資料画像)


さらに

当時の委員会議事録上でみると、参加者に地元関係者は少なく、都議・都庁関係者・学識経験者が多く出席しており、「外環ありき」の審議が進められた背景もあったとか。

加えて、③の「外環ノ2」についても、外環道が完成すれば自動的に出来る程度の、まさに「所与」の認識であったせいでしょうか、あまり突っ込んだ議論がなされることなく決定されている様です。

■出典:武蔵野市における地上部街路に関する話し合いの会 議事録
     
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/kiban/gaikaku/gairo-musashino.htm








ともあれ

法的に不備がなくても、無理筋ゴリ押しはいつの時代も破たんします。

高度成長期を通しての工業化や自動車交通偏重の歪みが、1960年代後半から公害問題として現れ、沿線自治体から外環計画への不信感が噴出します。1967年6月には武蔵野市議会で外環道路反対特別委員会が設置され、その後に練馬区・杉並区・世田谷区・武蔵野市・三鷹市・調布市・狛江市などで市区議会で反対が決議がなされます。

1969年に東京都内の自動車保有台数が200万台を超えて排気ガスによる大気汚染が深刻になるにつれ、外環計画も一気に傾き始めることになります。

















■参考:昭和40年代前半 江戸川区東小松川京葉交差点(東京都環境局)


1970年

7月18日のことですが、環七にほど近い東京立正中学校・高等学校の生徒達が、グランドで体育の授業中に目や喉の痛みを訴えることになります。これは東京で観測された車の排気ガスに伴う「化学スモッグ」の初事例。

都市部の排気ガスに伴う公害問題が、より大きく社会的にクローズアップされるに至り、世論支持に敏感な国会が動きます。
























当時の参議院建設委員会で根本龍太郎建設大臣が「(外環は)地元と話し得る条件の整うまでは強行すべきではない。」旨の答弁し、それに押されるように「一人でも反対があったら橋を架けない」という「橋の論理」で少数意見を重視する美濃部亮吉東京都知事により計画は事実上凍結されることになります。

■写真:美濃部亮吉元東京都知事(wikipedia)





さて

それから20年の年月が経ることになります。そして凍結というからには、いつの日か「解凍」もあります。解凍に向けて、1999年に石原元都知事が就任した時期から明らかに潮目が変わってくる訳です。その話は次回へ続きます。