第4回 武蔵野に競輪場計画?南方戦線から戻った社長が破竹の活躍!
武蔵野競輪場!
ということで、武蔵野競輪場、けいりん?、武蔵野市と競輪場が関係があるのでしょうか。武蔵野市在住の長い方であれば「むかし、南口駅前から京王多摩川にある京王閣競輪場まで直通バスが出てたよ」とおっしゃるかもしれません。しかし武蔵野競輪場の話はそれより少し前、現在の武蔵野市役所周辺に「競輪場を誘致しよう」という動きがありました。
■写真:中島飛行機跡地と武蔵野競技場(武蔵野市議会報)
さて、よく知られているのは、武蔵野市緑町付近には戦前に「中島飛行機」という最先端かつ日本最大の航空機会社の工場(武蔵製作所)があった話。一時は日本の戦闘機を含む航空機エンジンの30%弱がつくられ、30000人以上が働いていました。この武蔵製作所は平成19年11月にB29を中心とする米空軍からの空襲で壊滅的な被害を受けます。
そして終戦2日後に中島飛行機から「富士産業」と名前を変えた後、この工場で働いていた従業員労働組合が設立したのが「武蔵野文化都市建設」という会社。戦後に空襲で被害を受けた「武蔵野地域の文化的復興」を掲げて今の西窪病院前に事務所を構えました。
社長は、当時武蔵野市に住んでいた元逓信省総裁の「松前重義(まつまえしげよし)」さん。この松前さんは東海大学の創立者でもあるんですが、気骨のある方だった様で戦時中にも関わらず「東條内閣をたおせ!」「戦争を早く終わらせろ!」を主張していたため、終戦間近の1944年に、42歳で当時「逓信省工務局長」という偉い人だったにもかかわらず、いきなり二等兵として召集され、南方戦線に送られてしまった、という経歴の持ち主です。
■写真は松前重義さん(東海大学HPより)
そうしてできるのが、かの有名な「武蔵野グリーンパーク野球場」。両翼90メートル強、中堅130メートル弱、約50000人収容という当時としては日本最大級の野球場が完成したのが1950年のこと。
そして、さらに松前社長が行動に出ます。行き先は当時の「国鉄」。旧知の間柄だった当時の天坊裕彦国鉄副総裁(昔、国鉄事業は松前社長が総裁だった逓信省の鉄道局が担当していた時代もあったんですね)「三鷹から武蔵野野球場まで鉄道つくってくれ。昔の中島飛行機への物資輸送用の線路を活用すれば、サクっとつくれるだろ。」とこれまた言ったかどうかはわかりません。
が、結局1951年4月14日には鉄道が開通、「武蔵野野球場前(むさしのやきゅうじょうまえ)」という平仮名では当時最大文字数の駅が誕生します。そしてその年のこどもの日、プロ野球の名古屋(中日)vs国鉄(ヤクルト)が開催され、こけら落とし。この日は、東京駅から三鷹駅経由で武蔵野野球場前行きの直通電車がバンバン走ったりしたんですね。
■写真:現在の武蔵野球場前付近(武蔵野東学園さんがありますね)
実は戦後、1948年に運輸省鉄道総局から分離して国鉄が誕生したものの多くの従業員をリストラしなければならず「ちょっと目先の違うことをやって、従業員のガスを抜いて一体感を高めなきゃ」と国鉄自身も考えていました。この鉄道ができると同時に国鉄鉄道局(当時)の野球部が母体となって誕生したプロ野球チームが「国鉄スワローズ」、今の東京ヤクルトスワローズです。このスワローズ、かつての「特急つばめ号」から来ています。
■写真:特急つばめ号(wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A4%E3%81%B0%E3%82%81_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
「もし緑町に競輪場があったら」「日本最大級の野球場があって、フランチャイズ球団があったら」としたら、今の吉祥寺もまったく違った街づくりが行われたことでしょうね。
歴史にIF(もし)は無い訳ですが、なんともなんとも、不思議な話です。