第30回 大字の吉祥寺ってどこよ!?吉祥寺の歴史絵巻(町名改編に向けて!) partⅢ

























野田北?

ということで、これは吉祥寺北町付近の旧地名ですね。昭和30年代まで使われていました。武蔵野八幡宮の交差点にある白いビルには「野田北」の地名が今でも残ってます。

という訳で

昭和30年代の大字「吉祥寺」には、御殿山芝野中道南野田北野田南本田北本田南といった小字があり、さらに通称(公称でない)通名小路名がたくさんあった、というのが前回までのおさらいです。




そもそも

「吉祥寺」とは江戸時代初期に吉祥寺村が開村した時の村名が引き継がれ、番地は明治維新後に税金(今の土地固定資産税)を徴収するためにつけられた便宜上の番号で、いわば江戸時代や明治初期のスキームが大正・昭和の人口増加で破綻しかけていた、ということだった訳です。


昭和29年5月












武蔵野市は、町名整理調査委員会を設置して調査研究を始めるんですね。住み慣れた町の名前を変えるのは、住民にとっては面倒でイヤなもの。反対する人も多く、そういう人たちとどう折り合うかが最大の焦点。それを先人たる周辺市町村に学ぼう、という訳です。


その結果、まず大変なことがわかりました。ずばり『土地の台帳と地図』の不一致。台帳にはある家が地図上にない、その逆も然り。地番が重複しちゃっている、などなど。パンドラの箱が開いて、レガシーシステムの旧弊が一挙に噴出してきます。

まずはこの擦り合わせから始めて、台帳と地図を最新の状態にしないとどうにもならないだろう、ということで、それはそれは地道な作業が始まりました。

その数、実に200件

たかが200件、されど200件。「俺の家の敷地はここまでだー」「何をいうかー」という争いもあって一筋縄じゃあいかないんです。


昭和32年5月

ようやくそれらの調整を終えた同委員会は答申を市に提出します。その内容とは「武蔵野市を21町にしよう」というもの。例えば現在の吉祥寺北町界隈は「清住町」、成蹊大学周辺は「欅町」という具合。



ここで決着はついた様に見えますが、ところがどっこい。これが最初の始まりという訳で、「なぜ駅から近い順に1丁目なんだ!」「西から東に丁目をふってくれ!(今のままじゃ、うちが末尾なので)」「そもそも、なぜこの名前なんだ!」という、各方面から批判やら陳情の声に委員会はさらされることになります。


そこで武蔵野市長が、それらの声を考慮して「27町案」を提示。これをベースに関係者の意見調整が始まります。


昭和33年1月

地元懇談会(今で言うタウンミーティング?)が御殿山や他の地域で開催されます。しかしこの懇談会でも、「なんで、町名を変える必要があるだよー」、といったそもそも論が噴き出し、事態は収拾しないまま、当時の市議会議員さんたちの任期切れで再検討、という話になったんですね。

予想以上に、反対の強い町名整理、一体どういう方向にどういう形で落ち着くのか、誰にも先が見通せないまま、昭和33年の市議会議員選挙を迎えることになるんです。


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