第29回 大字の吉祥寺ってどこよ!?吉祥寺の歴史絵巻(町名改編に向けて!) partⅡ




















通称108

ということで、前回に続きまして昭和30年代に巻きおこった「武蔵野市の住所を整理しようぜ!」という動きを追っていきますが、そもそも前回の通り、昭和30年代までの武蔵野市の公称(大字・小字)が39だったのに対して、通称108という、実に3倍近い数だったんですが、なぜここまで通称が多くなっちゃったんでしょうかね。今回はBlog de 吉祥寺流に、過去を紐解いてその原因を探ってみることにしましょう。




繁生うときく武蔵野も弓はずの見えぬほど茂ったススキ野

と、また更級日記の一節が出て参りましたが、過去は一面のススキ野だった吉祥寺や武蔵野市。公(おおやけ)に人が住む様になったのは実は今から350年ほど前のこと。1600年代半ばからなんですね(以前特集しました)。












皆さんもよくご存知の話と思いますが、1657年江戸の明暦大火、俗に言う「振袖火事」で、江戸城本丸天守閣を含む江戸市街の2/3を焼失してしまったんですが、その時につくられたのが幕府の「災害復興計画」的な大方針。


内容は、江戸における火除地(ひよけち)広小路(ひろこうじ。広い通りをつくって火の回りを防ぐ意図も)の設定、幹線道路拡張、寺、大名屋敷の移転だったんです。















以前特集しました「吉祥寺(文京区駒込)」というお寺も、もともと水道橋門外(現在の文京区後楽園東部)にあったんですが、江戸市中の防火空地の確保のため、水道橋から駒込の現在地に移転したんですね。


その時の吉祥寺の門前町に住んでいる人たちが、幕府により「武蔵野開発!」という新しいミッションを受けて、五日市街道を西へ西へと進み、「ここで新しい生活を始めよう!」と足を止めた先が武蔵野のススキ野原。そこで人々は、移住前に慣れ親しんだ「吉祥寺」を冠して「吉祥寺村」として一所懸命に野原を切り拓いていった、というのがそもそもの吉祥寺の起こりです。


いわば吉祥寺は幕府が国策的に拓いた農業経営ミッションの集落だった、とも言えるでしょう。当然、農業経営第一なので、耕地が広くとられた結果、必然的に大字・小字も広く設定されたのが特徴だったんです。広い小字で効率的に大規模農業を展開しよう、という意図ですね。













そして明治以降になり、その江戸以来の広い小字をベースにしながら村単位で地番が振られたって訳です。その頃はまだまだ人口も3000人程度(明治22年の武蔵野村成立の頃)だったのでよかったんですが、その後、関東大震災や第二次世界大戦を経て、都心からの被災者の移住が増え、吉祥寺の人口は爆発的に増加してったんです。



 1659年頃 吉祥寺村の成立(人口:数十人)
 1889年(明治22年) 武蔵野村成立(人口:3089人)
 1928年(昭和 3年) 武蔵野町制(人口:13021人)
 1947年(昭和22年) 武蔵野市制(人口:63486人)
 1957年(昭和32年) 人口10万人突破


戸数が増えるにつれ、小字を親番とする地番にも枝番も増え続け、昭和30年代には、なんと1つの親番に300~400の戸数を抱えるというところも珍しくなくなっていたんですね。これでは困る!ということで前回の様な、「住所を整理しょう!」ってな動きにつながっていく訳なんです。


ということで次回は、その具体的な動きを追ってみることにしましょう!