第39回 副々都心の商業地域へ!?。吉祥寺駅周辺開発の歴史を探る!(6)
東京オリンピック
昭和39年に始まった日本のスポーツ・イベント史に冠たる一大イベント、オリンピック。一気に高度成長に拍車がかかってくるのもこの頃です。
■地図出典: 武蔵野市議会報 昭和33年10月 第60号
(昭和30年代初頭の武蔵野市の町名改正案)
目下、吉祥寺では「駅周辺再開発」について、東京都の都市計画地方審議会の計画決定に向けて大詰めの調整が進められていたんです。ただし当事者同士ではなかなかに詰まらない、という中で、すかさず東京都が出してきたのが「都案」。この「都案」を皮切りに急転直下で検討が進み始めます。いくつか原因はあるんですが、そのうちの一つが「高架下の利用計画」が具体化して「ステーションセンター(現在のアトレ)」をつくろう!という計画が具体化し始めたんですね。
「国鉄高架下の利用は都市計画該当者を優先してほしい」
という付帯条件の下、ギリギリの折衝が続けられます。
そして迎えた昭和39年9月。
翌月10月には東京オリンピック開催、そして夢の超特急「東海道新幹線」開業を間近に控えて、日本中が浮き足だっている頃ですね。
開かれたのは「市議会全員協議会」。委員会の皆さんは下より商工関係者などが一同に介してガチンコの勝負をする決戦の場です。これが朝から開始して、折り合いがつかず結局深夜まで及ぶ大混乱の事態に。
喧々諤々の議論の末、「都案」で大筋合意となるんです。最後の論点は「自分達の街なのに、東京都が検討した案でいいのかな・・」というモノ。しかしここは市長が「都案とすれば、東京都に無理が言いやすいから、これでいきましょう」と引き取って落着。
昭和39年11月
関係者は一様に胸を撫で下ろします。
都計審に合わせて、国鉄から「高架下にはショッピングセンター(現在のアトレ)を作り、駅西側(三鷹側)にも出入口をつくります」と計画を具体化する動きもみられ、急速に吉祥寺駅周辺の将来の青写真がみえてくる様になるんですね。
しかし
これですべてが終わった訳ではなかったんです。計画決定はいわば方針決定。事業として具体的に実行する時にこれでもか、といわんばかりの問題が山積していきます。
ちなみに吉祥寺駅北口駅前広場の供用開始(全部完成!)は、計画決定の昭和62年4月。この計画決定からざっと20年以上も先の話。いわば、これ壮大な吉祥寺駅周辺再開発の終わりの始まり、序章に過ぎなかったんですね。