第55回 吉祥寺の大動脈!関東バスを追う~(4)































1931年


中央線の新宿~甲府間が電化(汽車から電車へ)された年でもあり、吉祥寺の街とは縁の深い航空機会社「中島飛行機株式会社」が設立された年でもあるんですね。


※写真:かつて中島飛行機に物資を輸送していた三鷹~武蔵野市緑町引込線跡(グリーンパーク遊歩道)の遺構





そんな年に産声を上げたバス事業者が「関東乗合自動車」、つまり現在の関東バスの起源の1社なんですね。運行区間は短く新宿駅 - 小滝橋の1系統のみ。地元有志によって設立された零細バス事業者でした。当然、現在の様に営業エリアを拡大して、吉祥寺まで乗り入れてくるのは相当後のことなんです。



1932年


ようやく吉祥寺駅にもバスが走りはじめます。


運行を始めたのは関東乗合自動車ではなく「武蔵野乗合自動車」。区間は京王電気軌道の調布駅~国鉄吉祥寺駅の間。これを聞いて勘の良い方は気づかれた方もいらっしゃると思いますが、この武蔵野乗合自動車こそ、現在の小田急バスの起源なんですね。この路線、現在も吉祥寺駅南口から運行されており、利用客も多い路線です。


という様に、東京周辺でも関東乗合自動車のような零細バス事業者がビジネスチャンスとばかりに数多く参入してくると、バス事業者間の競争も激化してくることになります。時に乗客を奪うために無茶な運行計画を立てたり、運賃をダンピングしたり、現在では考えられないくらいすごい状態になっていったんですね。


とにかく当時のバス路線の拡大は目覚しかった訳ですが、そのパターンは大きく2つに分かれました。具体的には


・鉄道の空白地の結ぶもの(八王子~五日市)
・鉄道と並走するもの(新宿~調布、多磨霊園)




特に後者は「鉄道より安くフリークエンシーの高い乗り物」として人気も上々。逆に運賃が高く、現在ほど高速化の進んでいない鉄道会社にとって大きな脅威になったんです。



















激烈な競合を背景にできた法律が「自動車交通事業法」、1933年のことです。そこで謡われたのが「1路線1営業の原則」、つまり1つの路線には1つのバス事業者しか運行できませんよ、という現在では当たり前のルールなんですね。


同時にバス事業者にも安全性等に関する基準が設定されることになったんです。そうした結果、基準を満たすことができない零細バス事業者は、撤退を止む無くされたり、より規模の大きい企業に買収されていく様になります。


特に鉄道会社は、競合になっていた沿線のバス会社をせっせと買収していきます。京王電気軌道は新宿~多磨霊園間を運行してガチンコの競合だった「甲州街道乗合自動車」を買収。この会社が現在の京王バスの起源になったりしているんですね。





















そんな中で、関東バスの祖先「関東乗合自動車」も、荒波にもまれるかのように、東京横浜電鉄(現在の東急)に買収されていくことになるんです。時は、第二次大戦の足音が聞こえてきている1938年のことだったんですね





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