第57回 吉祥寺の大動脈!関東バスを追う~(6)





























1942年

太平洋戦争真っ只中の1942年。ミッドウェー海戦での敗戦を契機に、戦局が日増しに悪化しつつある中、経済産業をより一層戦争一辺倒にしよう!という動きが高まってきます。政治も大政翼賛会による事実上の「翼賛選挙」となっていたころ、当時の鉄道省から1本の通牒が発令されます。




写真:戦争当時の面影を残す住友重機械工業の田無製造所
    (ひばりが丘駅からこの辺りまで貨物線路が引かれていた)


1942年 鉄道省通牒に基づく強制統合











この主旨は「東京市内交通の一元化と郊外交通の統合」って訳ですが、この通牒を契機に東京の鉄道・バスの大合併が行われるんですね。その口火を切ったのが、現在の井の頭線と小田急。両社ともに鬼怒川水力電気という会社が大株主で合併に舵を切りやすい環境にあったって訳です。ちなみに当時は電力会社が鉄道会社を兼営しているってことが数多くありました。



■写真:その昔、小田急線と井の頭線は下北沢駅周辺で結ばれていた(連絡線)


■中央線南側

1940年 帝都電鉄(井の頭線)と小田原急行鉄道が合併
1942年 京浜急行と東京横浜鉄道と小田原急行鉄道が合併
      (東京急行電鉄に)
1944年 京王電軌と東京急行電鉄が合併

1944年には俗に言う「大東急」が完成します。


■中央線北側

1940年 武蔵野鉄道(池袋線)と多摩湖鉄道(西武多摩湖線)が合併
1945年 武蔵野鉄道(池袋線)と西武鉄道(新宿線)


という様に、北側は西武鉄道を軸に合併が進むんですね。この動きの中で、関東バスのルーツである関東乗合自動車も、東急傘下に入りつつ、周辺のバス会社3社(進運乗合、中野乗合、昭和自動車商会)と合併していくんですね。











しかし関東バスが良かったのが、そのポジション。東急傘下でありつつも、ちょうど中央線の北側(西武)と南側(東急)に挟まれる形で路線をもっていたので、完全に飲まれる訳ではなく、独立したポジションを維持し続けたんですね。


1945年 関東乗合と進運乗合、中野乗合、昭和自動車商会の合併
 
その後、戦争が激化して東京でも空襲が始まります。次第にバスを動かす燃料が不足、車両の被災が相次いで発生します。そして極め付けは大型車両の運転ができる運転手がどんどん招集されててしまい人手不足に陥ってしまったんですね。


そんな中で東京のバス会社はその大半が運休という状況下、終戦を迎えるんです。

ということで、関東バス編、前半戦終了!一休みして後半戦に突入です。


参考文献:多摩の都市化と鉄道(鈴木文彦)




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