第59回 吉祥寺の大動脈!関東バスを追う~(7)
壊滅状態
今年も66回目の終戦の日を向かえました。第二次大戦で、大きなダメージを受けた東京・多摩の路線バスな訳ですが、バスの車両は空襲で焼け、大型車を運転できる運転手は徴兵され、ということで壊滅的な状況だったんですね。
吉祥寺には中島飛行機武蔵製作所があり、戦闘機エンジンの主力工場だったこともあって、昭和19年11月以降に猛烈な空爆がはじまったんです。
写真:武蔵野中央公園(かつての中島飛行機武蔵製作所周辺)
関東乗合自動車は東急傘下で営業を続けるも、ダメージはとても大きかった様です。特に車両のダメージは大きく、小滝橋にあった車庫は東京大空襲で被災、終戦直後は戦場から運ばれてきた中古軍用車や米軍の水陸両用車にバスボディを乗せて走らせていたんだとか。
しかし空襲でで焼け出された人達が多摩地区に移住、東京郊外人口が急増してくるのもこの頃。武蔵野市でも戦後2年目の1947年(昭和22年)11月3日に 市制施行します。この頃の人口は約6万3000人なんですね。
1989年 武蔵野村 成立 人口3089人
1928年 武蔵野町 町制 人口13021人
(約40年で約10000人増)
1947年 武蔵野市 市制 人口63486人
(約20年で約50000人増)
という訳ですから、この戦中戦後の人口急増ぶりが何となく伺えますね。
■写真:戦前の武蔵野市(国土交通省航空写真より)
人が増えれば交通の重要も増える、ってな訳でここで動きを加速させるのが関東乗合自動車。果敢に合併と路線拡大に走ります。まず1945年に関東乗合自動車は中野乗合自動車と合併するんですね。ちなみに中野乗合自動車の本社は、現在の関東バス阿佐ヶ谷営業所の場所にありました。戦後1948年まで関東バスはこの場所に被災した小滝橋の本社を疎開させていたりしたんです。
<関東乗合自動車の年表>
1931年 関東乗合自動車 創業
1938年 関東乗合自動車 東急傘下へ
1945年 合併した中野乗合が京王傘下(京王との関係強化)
(同時に、進運乗合自動車・昭和自動車商会とも合併)
路線バス会社同士の経営統合は、最近ではあまりなく話題にならないんですが、当時の路線バス事業は今のIT産業のような「ベンチャー企業」が多く、会社同士が経営統合を繰り返していたんですね。
話を戻します。
この中野乗合自動車、実は資本的に京王傘下だったんです。そしてこの合併を期に一気に関東バスと京王電鉄との関係が深まり、戦後には東急グループから京王に株式が譲渡されることになります(現在の京王電鉄の持ち株比率は29,96%)。
京王電鉄といえば路線バス事業に力を入れていた訳です(前回)。そこでその資本の入った関東バスも路線網の拡大を進めていったって訳です
しかし不思議なのは、なぜ京王バスは関東乗合自動車を傘下にいれつつも、経営統合には至らなかったんでしょうか。この点は次回に続きます。
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