第60回 吉祥寺の大動脈!関東バスを追う~(8)
昭和25年
それは第二次世界大戦の傷跡も冷めやらぬ頃、お隣の朝鮮半島では朝鮮戦争が開戦するなど、まだまだ混乱が続く時代です。そんな時代のこの頃、東京に白地に赤と青のラインの入った「ハイカラ」なバスが走り始めます。そのデザインは米ロサンゼルス都市圏に大鉄道網を持っていたパシフィック鉄道を模したもの、それはずばり関東乗合自動車=現在の関東バスだったんですね。
写真出典:東京近郊図_地理調査書_昭和28年
そして当時の関東乗合自動車を経営していたのが柏村毅という方だったんです。
ちなみに、その2年前に東急から京王帝都電鉄が分離、それを期に東急が持っていた関東乗合自動車の株式も京王帝都電鉄に譲渡されたんです。なので当時、関東乗合自動車は資本的には京王帝都電鉄の影響下にあったんですね。しかしその京王帝都電鉄とほぼ同等の株式を有していたのが、この柏村毅氏だったんです。
さて、この柏村氏、もともとは福島県会津の産まれ。その後上京して、昭和大恐慌ただ中の昭和2年に東京の私鉄=池上電気鉄道に入社、バス部門に配属されたんです。この池上電気鉄道は、現在の東急池上線。山手線の五反田駅から出ている電車です。そしてここから柏村氏のユニーク?なキャリアが幕を明けるんです。
戦争の気配漂う昭和9年。当時の目黒蒲田電鉄(現在の東急)が、この池上電気鉄道を乗っ取る形で、何と一晩のうちに買収してしまうんですね。この買収を仕掛けたのが、その強引な買収策からあだ名された強盗慶太こと五島慶太氏。実質的な東急の創業者なんですね。
この五島氏、大学卒業後、1911年に農商務省に入省、その後鉄道院に移り、1918年に総務課長、しかり官吏の枠に飽き足らず、1920年に武蔵電気鉄道(現在の東急東横線)の常務に就任したって経歴の方。
■写真出典:北原遼三郎(2008)「東急・五島慶太の生涯」北原遼三郎,現代書館
この買収、実は池上電気鉄道というより五反田駅を押さえたかった、という背景があるんだとか。東急は渋谷や目黒を起点とする路線網。五反田から新線が開発されては大きな影響がありますので。
ちなみに戦後に井の頭線(帝都電鉄)が小田急ではなく京王帝都電鉄に合併した背景。配電事業の分離で京王が弱体化したから、がよく言われる理由。
しかし裏読みをすると、小田急電鉄と合併すると、渋谷発の小田原・江ノ島方面行きという電車を走らせる可能性があって、東急と競合することを嫌ったんだという噂もありますね。事実の程は定かではありませんが、それほど力をもった方だったんです、五島慶太さんは。
写真出典:下北沢駅付近での井の頭線と小田急電鉄の連絡線
余談ですが、東急の利用客の増加に向けて、慶應義塾大学を日吉に誘致したり、東京都市大学(前:武蔵工業大学)を設立したのも、この五島慶太氏です。田園調布の街を丸ごと作ってしまったのも、この人。時代背景や様々な見方があるとはいえ、この構想力と実行力はすさまじいものがありますね。
そしてこの五島慶太氏の下で力をつけて出世していったのが先程の柏村毅氏だったんですね。関東乗合自動車とのかかわりは、第二次世界大戦色の濃い1940年頃。既に東急傘下であった関東乗合自動車の小滝橋営業所長に就任から始まります。
戦後に、東急から京王帝都電鉄に関東乗合自動車の株式が移譲された後も、東急本体の専務を兼務しつつ関東乗合自動車の株主として、また経営者として関東乗合自動車による他社との合併、路線拡大に辣腕をふるったんです。
余談ですが、分離した時の京王帝都電鉄の経営者も、実は東急系列の人(三宮氏)。ちなみにこの柏村毅氏、東急が一時系列に組み入れていた越後交通の経営を任されたことがありました。
その当時、柏村氏は東急のバス部長を兼務、そしてその時の越後交通の会長は、後の内閣総理大臣である田中角栄氏だったんですね。昭和30年代半ばのことです。
写真出典;wikipedia
当然、分離する元企業の実力者専務が経営している関東乗合自動車に、京王もあまり口を出せるはずもありません。ちなみに現在、東急電鉄の乗り入れのない吉祥寺になぜか東急百貨店吉祥寺店がある訳ですが、その当時の微妙な力学の匂いがわずかに感じ取れますね。
関東バス特集の初回に触れましたが、この米パシフィック鉄道の経営手法を模擬したのが東急だったんですね。戦前から東急は、このパシフィック鉄道の視察団を幾度か米に送っていました。事実はわかりませんが、東急専務であった柏村氏がこの視察団となり、遠くロサンゼルスの地の大鉄道の姿を夢として関東乗合自動車に重ねたんだとしても、あながち不思議ではありません。
ってな訳で
関東バス特集もいよいよ大詰め。次回は戦後の路線バスの最盛期と衰退の歴史、そして関東バスの今を追いつつ、いよいよラストに近付いていきます。
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