第64回 吉祥寺のガンジス?街を育んだ母なる流れの謎に迫る!!(1)








野田

ということで、野田。「のでん」と読みます。総理大臣の名字ではありません。突然、何から始まったかといえば、この「野田(のでん)」。昔の吉祥寺界隈の住所の一つ

以前、昭和29年から始まった武蔵野市の町名整理をめぐって「吉祥寺」の町名をめぐって大闘争があった、ってな話がありました。その時にも少し話をしましたが、現在の吉祥寺の北側、つまりサンロードを抜けた五日市街道付近、つまり吉祥寺北町吉祥寺東町あたりは「野田(のでん)」と呼ばれていた訳です。昭和30年代の大字「吉祥寺」には、御殿山、芝野、中道南、野田北、野田南、本田北、本田南といった小字があったんですね。

今でも「武蔵野市立大野田小学校(おおのでん)」という学校名に名残があります。


■参考:大字の吉祥寺ってどこよ!?吉祥寺の歴史絵巻(町名改編に向けて!) 最終編
http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E7%94%BA%E5%90%8D%E6%94%B9%E7%B7%A8



ちなみに




現在の公園通り(東急吉祥寺店の前の通り)五日市街道が交わる交差点のところにある古いビルの名前、よく見ると「住宅都市整備公団野田北団地」とあります。現在のUR(都市再生機構)の賃貸団地で、築は昭和37年10月です。

■参考:写真出典:都市再生機構
http://www.ur-net.go.jp/akiya/tokyo/20_0910.html


で、

なんで野田なんで名前がついたかといえば、その名の通り「田んぼ」がたくさんあったからって訳です。以前の特集で「吉祥寺は、国策的な農業推進のために拓かれた街」ってな話もありました。短冊型に広く開かれた田んぼは大規模農地による効率的な農業経営を意図したものだったって訳です。




おかげで戦後の町名整理の時は、広く取られた大字(おおざさ)のため、それをどう分割して、どういう名前をつけるか、大変な騒動になったって訳です。





さて

よく知られている吉祥寺の街の創始伝説は、江戸市中での明暦の大火により当時の水道橋界隈にあった諏訪山吉祥寺門前の住人がこの地に移り住んだって話です。開村時の名前は「武蔵国幕府領 吉祥寺村」。当時は多摩西部や秩父方面の石材などを運ぶ青梅街道の裏道として1590年に開かれた五日市街道を西に進み「この地で農業をやろう!」と足を止めて11世帯(諸説がありますが)生活を始めたのが現在の吉祥寺東町だったんですね。




以前、Blog de 吉祥寺でも特集しました。ちなみに吉祥寺村開村時の人口は約300人でした。

■参考:特集Ⅱ!吉祥寺村の歴史を追う!!カヤと鷹の関係とは!?
http://www.kichijoji-city.com/2010/10/blog-post.html


では!

なぜかつての吉祥寺の創始者達はこの地で足を止め、この地で先進的な農業を拓いていこう!と決意を固めたんでしょうか。それを知る手がかりを探りためには、皆さんがよく知る1本の「水の流れ」の歴史や役割を紐解く必要がありそうです。

さて吉祥寺に馴染みのあるその「水の流れ」に着目する必要があったんですね。

■参考:えんかしら?かつての一大観光地!吉祥寺の「七井の池」とは?
 http://www.kichijoji-city.com/2010/08/blog-post_20.html


 

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