第66回 吉祥寺のガンジス?街を育んだ母なる流れの謎に迫る!!(3)



島原の乱

皆さんよくご存知の江戸時代の武装蜂起の名前ですね。1637年に発生した史上最大の一揆です。巷では「キリシタンの乱」などと言われていますが、その実態は宗教戦争というより藩主の松倉家による過剰な年貢徴収への怒り爆発の乱なんだとか。実際、乱での死者は殉教者とは認められてない訳なんですね。




寛永の大飢饉

と、これもどこかで聞いたことがあります。時は島原の乱と同じ頃、1640年代前半(一番ひどかった年が1642年)。天候事情もありますが、困窮した武士達が農民から農作物を奪取したのも一因、という説もあります。




で何?


ということなんですが、島原の乱と寛永の大飢饉に共通している一因はずばり「武士の困窮」。時の将軍、徳川家光が制定したのが「参勤交代」でした。徳川幕藩体制は藩に使役や参勤交代、倹約を課して「力を押さえ込む」という関が原「戦後」の政治が続いていたんですね。

しかしそれが武士の困窮を招いたのも事実。



家光の次の将軍「家綱」は、島原の乱や寛永の大飢饉を受けて農政重視=お百姓を育てよう!という方向へと政策の大転換を図ったんです。いわば第二次大戦後の治安維持から高度経済成長に軸足移した池田内閣に似た動きって訳ですね。


■写真出典:Wikipedia 徳川家綱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1


もともと参勤交代で藩の武士達が江戸市中に住まうようになっていた上に、経済重視の政策で江戸への人・モノ・カネの集積が加速していきます。

そんな中で不足したのが江戸市中の飲料水。その上水確保と折りしも政策の一丁目一番地であった「農業開発」を目的に、玉川上水開削計画が持ち上がったのが1652年。翌年1653年2月着工、そこからが猛スピード、わずか半年後の8月には玉川上水完成に至った訳です。


そしてその4年後



1657年。

江戸を襲った大惨事「明暦の大火」で被災、水道橋にあった諏訪山吉祥寺門前の住民が五日市街道を西進、吉祥寺の地で足を止めて「新しい農業を」行なうために吉祥寺村を開村したのも一連の「幕府の農業政策」の一環だったんですね。


遠い西国で起きた「島原の乱」や「寛永の大飢饉」そして「玉川上水」は、実は今の吉祥寺の街に密接に関わっていた訳です。次は玉川上水のより詳細をみていきす。