第67回 吉祥寺のガンジス?街を育んだ母なる流れの謎に迫る!!(4)



江戸の人口=15万人


ということで


今回のBlog de 吉祥寺では引き続き玉川上水を追っていきます。15万人とは1609年、江戸開幕当初の江戸市中の人口ですね(ドン・ロドリコ見聞録)。ちなみに80年後の1690年代後半には100万人を超える当時の世界最大級の都市となる訳です。




■井戸の頭で・・・




人が集まると必要になるのが飲み水=上水の整備。


江戸初期の主要水道と言えば1590年に通水した神田上水湧水など。ご存じの通り吉祥寺の井の頭池等を水源として小石川(現在の水道橋)まで流れ、そこから先は江戸市中に地下水路が張り巡らされていました。それらは井戸を通じて江戸の貴重な飲料水となっていたんですね。



ちなみに江戸の井戸の源=頭なので「井の頭」池なんです。


ちなみに武蔵野台地の端の窪(小さい谷)から流れ出る湧水は結構ありました。地名で多くありますね、荻窪恋ヶ窪など。




■工事請負業者は加藤兄弟?


人口増加が著しい中、時の将軍徳川家綱は老中の松平信綱に玉川上水開削を命じます。そして松平さんは町奉行の「神尾備前守」を抜擢、備前守は工事請負者として、多摩川川筋に住んでいた富裕農民(諸説あり)の加藤庄右衛門、清右衛門の兄弟を推挙したって流れです。


ちなみに備前守さん、歴代の町奉行の中で最も在任期間が長く江戸の街を熟知していました。そしてこの加藤兄弟こそ、後の玉川兄弟なんです。




工事を請け負った加藤兄弟は請負代金6000両をもって着工したのは1653年4月。全線を25工区に分けての突貫工事。なんと同年11月15日にわずか半年強で竣工してしまいます。しかし請負代金の6000両は底をつき、2000両自腹を切ってさらに1000両を家屋敷を売り払って確保する始末。





しかし、なぜに3000両もショートしてしまったんでしょうか。



















諸説ありますが、一説には工事計画変更に伴う問題。


現在こそ羽村~の玉川上水ですが、当初の計画は東京都日野市の日野橋東側を取水堰とする計画。確かに南方向に多摩川は蛇行しており条件的には十分。しかし実際に着工してみたものの府中界隈で崖にぶつかって止む無く断念、再度の計画変更を経て現在の羽村に落ち着いたんだとか。


当然、日野より羽村からの方が掘削距離が長く予算ショートに至ったって話。しかし90m強の標高差を自然流下させる測量技術がある割に「崖で断念」とは



■多くの謎が残る上水着工


何はともあれ1653年に無事通水、庄右衛門、清右衛門兄弟は「玉川」姓を名乗ることを許され、上水の管理も玉川家の世襲となった訳です。




が、しかし疑問!


(1)なぜこれほどの公共事業が「大名普請」でなく
        イチ民間請負工事になったのか。


(2)なぜ優れた測量技術の割に日野取水ルートが
        「崖で断念」というチープな結果に至ったのか
(3)なぜ庄右衛門、清右衛門兄弟は家屋敷を売り払ってまで
        完成にこぎ着けようとしたのか


コレについては研究者の間でも諸説あるんですが、Blog de 吉祥寺では「陰謀説」をとってみます。玉川上水と陰謀とは似ても似つかない感じです。

さて陰謀説とは?