第71回 吉祥寺のガンジス?街を育んだ母なる流れの謎に迫る!!(8)


















ヨドバシ吉祥寺


今去ること5年前、2007年に三越+大塚家具の撤退後にオープン、今や吉祥寺に欠かせない存在となってます。2001年までは近鉄百貨店がありました。半円をモチーフとしたレンガの外観が懐かしい感じです。


写真出典:ヨドバシ吉祥寺(wikipedia)







■ヨドバシ吉祥寺と玉川上水の関係?


さてこのヨドバシカメラ、1967年7月に西新宿で創業した訳ですが、西新宿といえば林立する高層ビル群がパッと思いつきます。その高層ビル群が立ち並ぶ前、いまだ雑木林であった新宿西口地区に今から100年以上前、1898年冬に開設されたのが「東京都水道局東村山浄水管理事務所淀橋浄水場」、通称「淀橋浄水場」なんですね。



















写真出典:東京都水道局


開設されたころ、このあたりの住所は「東京府豊多摩郡淀橋(よどばし)町」。吉祥寺のヨドバシカメラの名称もこの「淀橋」がルーツな訳なんです。


で、この淀橋浄水場、正式名称に「東村山浄水管理事務所」とあります。新宿にあるのに東村山?、とまあ勘の良い方はすでにお気づきの通り、実はこの淀橋浄水場の水は「玉川上水」の水だったんです。ヨドバシ吉祥寺の程近くを玉川上水を流れているのを見るに、歴史の縁を感じますね。


ちなみにこの「淀橋」、実際に橋がありまして、跨いでいるの川といえば、井の頭公園を水源とする神田川、つまり江戸神田上水な訳で、これもまた縁なんでしょうか。


出典:淀橋浄水場(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%A9%8B%E6%B5%84%E6%B0%B4%E5%A0%B4



そして時はさかのぼること1877年の頃、明治10年ですね。日本全国で蔓延したのが「コレラ」という伝染病。そして前回の話の通り、玉川上水も汚染され、当時の東京大学理学部の学者さんに言わせれば「希薄の尿水」だったとか。また雨天時になれば汚濁することもザラだったとか。




そこで当時の明治政府は、玉川上水上流域を東京府に編入して管理体制を強化、同時に玉川上水の水をいったんキレイにするための浄水場を淀橋の地に開設しようと計画したんですね。それが淀橋浄水場って訳です。






















■写真出典:五日市街道と玉川上水(昭和30年代) 東京都水道局



その後も東京の人口が増え続け、第二次世界大戦後の1960年に東村山浄水場(東京都水道局東村山浄水管理事務所)が開設されるまで、淀橋浄水場と玉川上水は東京に飲料水を供給し続けたんですね。実に玉川兄弟が玉川上水を拓いてから300年、多摩の農業を拓き、街を開き、と破竹の大活躍だったって訳です。



















■写真出典:淀橋浄水場の歴史(個人ブログ)

http://www.geocities.jp/annaka29jp/jyosuikoujyaku/32yodobasijyousuijyo.htm




■玉川上水の終わりと始まり


そして東村山浄水場開設から5年後、朝霞や金町方面から利根川の水がもたらされる様になり、淀橋浄水場は廃止。その後、淀橋は整地され、1971年の京王プラザビル(地上47階)から西新宿の副都心高層ビル群としての新たな歴を歩み始めたんです。そして玉川上水も淀橋浄水場への送水、という最重要任務を終えることになります。





















■写真出典:旧淀橋浄水場の蝶型弁(新宿住友ビル脇に展示)


ちなみに東村山浄水場、玉川上水のすぐ脇にあるんですが、その強みは区部に「自然流下」で送水できるところ。東京が被災した時のバックアップ浄水場としても最重要施設になってます。今の時代にも玉川上水の測量技術がしっかり生きてるんですね。


さて、その後、明治・大正・昭和の時代を共にしたバディの淀橋浄水場を亡くした玉川上水は一体どうなったんでしょうか。1960年後半といえば、いわゆる経済高度成長時代。地方から東京に人が流入し、足りないのが宅地と道路用地。ということで都心部で玉川上水はどんどん地下に追いやられ「暗渠(あんきょ)化」されていくことになります。


















■写真:玉川上水の暗渠口部(杉並区高井戸)


 1967年 杉並区高井戸以東の一部が中央自動車道建設に転用
 1971年  大蔵省印刷局王子工場の水道水化(上水利用の廃止)
 1974年 サッポロビール恵比寿工場の水道水化(上水利用の廃止)


ということとなり、現在の小平監視所(東京都小平市)まできた玉川上水の水は埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)にほぼすべての水を送水され、そこから東側は完全に空堀化。吉祥寺の街を拓いた約300年の水道施設としての玉川上水の歴史は終わったんですね。


しかし時代は変わるもの。高度経済成長の一辺倒の時代が過ぎ、人々が都市に自然と潤いを求める時代となります。そして事態が動き出したのは1980年代、時代はバブル期として経済成熟に向かってた頃でした。



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