第70回 吉祥寺のガンジス?街を育んだ母なる流れの謎に迫る!!(7)























玉川上水に通船

ということで、吉祥寺村のガンジス 玉川上水編も佳境。(1)~(6)の話から、「玉川上水無くして、今の吉祥寺は無し!」という話はおわかり頂けたかと思います。で、今回はそれを裏付けるもう一つの逸話をご紹介しましょう。

写真出典:郷土学習資料 玉川上水(三鷹市教育センター) 大正時代の上水





■玉川上水水運始まる




明治初期、大政奉還以降の統治の混乱に乗じておこったのが「玉川上水の厳重管理の一時的な混乱」ってやつです。

時は1867年、まさに大政奉還の年の出来事です。現在の立川市砂川(当時は神奈川県西多摩郡砂川村でした)に住んでいた砂川源右衛門さんが役所に「(荷運のために通船したい!」と申請を出します。

写真:Wikipedia「大政奉還」
     http://ja.wikipedia.org



無論、江戸時代・江戸幕府の判断からすれば「そんなのダメ」ってな訳で軽くあしらていた訳ですが、ところがどっこい、これが時の明治政府に1870年に認められます。想像ですが何事も古い慣習にこだわるべきでない、という姿勢があったんでしょうか。

船運に使わる船舶の大きさは長さ10m×幅1.5m程度。大き目の筏という風情。羽村~四谷新宿間の農産物水運が可能となるんですね。それまで甲州街道経由だった信州・甲州からの物資は青梅街道~羽村~四谷新宿という水運ルートが開拓されたので、そちらに流れる様になります。


























この件、後段で話をしますが結局「やはりダメ」になってしまうのですが、実はこの政治判断の影響が多摩地区に与えたインパクトはかなり大。それを一言で言えば「横浜依存から東京依存」という大変革だったんです。

当時の多摩地区には中央線(開通は1889年)など走ってはおらず、神奈川県、特に1859年に開港した横浜との結びつきが強かったんですね。主要道路はずばり浜街道(八王子~横浜,神奈川往還)。そして三多摩(西多摩,北多摩,南多摩)の住所は東京ではなく神奈川県だったんですね。これが玉川上水の水運により東京とのつながりが深くなっていった訳です。

これは今の多摩地区につながる大きな変化です。





■神奈川県北多摩郡武蔵野村?

しかしこの玉川上水の船運、別の意味で大きな影響を及ぼします。

船運で困ったのが玉川上水下流の東京市中の人々。上流の神奈川県(砂川村など)船員の糞尿(少し汚い話ですが)やらで上水が汚染されてきたんですね。おりしもコレラが流行していた時代。そこで1872年5月に速攻で通船が停止となり、先に話をした通り玉川上水の船運は規制されて潰えることとなります。


かつ「今後もこんなことがあってはいけない!」と起こった運動が「三多摩地区(西多摩郡、北多摩郡、南多摩郡)を神奈川県から東京府に!というデモ。貴重な玉川上水の上下流の管理自治体が異なっていては、またこの様な事態が引き起こる、ということなんです。



ちなみに吉祥寺は当時「神奈川県北多摩郡武蔵野村吉祥寺大字」という地名。つまり神奈川県だったってことです。それらの運動を受けて三多摩地区を東京府に移管しようという動きが顕在化、とうとう1893年に東京府に移管となります。実は来年2013年で120周年ですね。


1893年2月 移管法案可決
1893年4月 東京府に三多摩地域が編入


東京都に吉祥寺が編入されたのは1893年の話。主たる理由は「玉川上水の汚濁防止」。ということで玉川上水がなければ今でも吉祥寺は「神奈川県武蔵野市吉祥寺」だったかもしれません。

ちなみに当時、多摩地区を独立させて「多摩県」とするという構想もあった訳で、そうなれば県庁所在地は八王子の「多摩県武蔵野市」。

歴史にIFはありません。ただ、現在の「東京都」武蔵野市吉祥寺という住所、あたり前のようですが、実は玉川上水あってこそ!という訳です。

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