第78回 2017年の開園100周年に向けて!井の頭公園の歴史を追う(4)

























渋沢栄一

ということで、今回の井の頭公園特集、いよいよ公園設立の話に入る訳なんですが、なぜかはともかく、その前に渋沢栄一氏の説明を。ご存じのとおり渋沢栄一さんは明治を代表する経営者日本資本主義の父といわれており、設立・経営に関わった企業はといえば、

・第一国立銀行
・東京ガス
・東京海上火災保険
・王子製紙(現王子製紙・日本製紙)
・田園都市(現東急電鉄)
・秩父セメント(現太平洋セメント)
・帝国ホテル
・秩父鉄道
・京阪電気鉄道
・東京証券取引所
・キリンビール
・サッポロビール
・東洋紡績


とまあ、日本有数の企業が並ぶ訳ですね。しかし、同じ明治を代表する三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎といった企業経営者と違っていたのは「渋沢財閥を作らなかった」ところ(諸論ありますが)。「私利を追わず公益を図る」というポリシーを生涯にわたって突き通した方なんです。

そんな御仁が当時の東京府北多摩郡武蔵野村御殿山の森に目を止めたのは明治30年頃のことでした。

■出典:Wikipedia










東京市養育院

渋沢栄一氏が若干35歳の時、設立したのがこの「東京市養育院」。もともと文京区にあったこの養育院、維新の混乱で多くいた身寄りのない孤児たちを収容して小学校過程や技術を学ばせる寄宿生の学校のこと。

















カリキュラムのポイントは、「文字・技芸を学ぶと共に就中農業に従事るは最高」という氏の言葉通り、勉強しながら就農する、という点。親のない孤児たちが自然と向き合って育つ環境をつくる、この点に重点が置かれていたんですね。孤児たちが向き合う自然の森として現在の井の頭自然文化園のあるエリア、御殿山の森に渋沢栄一氏は目を止めたって訳です。

















しかし、井の頭公園周辺は水源地であり宮内省御用林。皇室財産令により管理されており、学校の建設はかなりハードルが高い。しかしさすがは稀代の経営者、明治36年に養育院の文京区から吉祥寺御殿山への移転予算3万円(当時)を東京市議会で可決させ、かつ御林管理をしていた帝室林野局も働きかけて、東京市養育院の建設の認可にこぎつけてしまいます。

■写真出典:Wikipedia 東京市役所(東京府庁合同庁舎)




ちなみに

その際に渋沢栄一氏が構想していたのが、渋谷から吉祥寺に鉄道を敷こう!という計画。この構想が後の井の頭線につながっていきます。

この渋沢栄一氏の「自然や農業を生活に組み入れる」「コを整備して鉄道を敷こう」という構想、前者はもともとはエベネツァハワードの名著「田園都市」に端を発するものなんですが、後年の同氏による目黒、大田区一帯の住宅街の開発(洗足田園都市開発)、その通勤通学の足として鉄道子会社の設立、という流れで花開いていきます。




















そして、この鉄道子会社こそ、現在の「東急」ですね。また、さらには洗足田園都市に近接する多摩川台の土地に開発されたのが、「田園調布」。さらには戦後の多摩ニュータウン構想につながっていく、実にエポックメイキングな構想の端緒だったんです。

■写真出典:XWIN2(個人ブログ)
 http://xwin2.typepad.jp/xwin2weblog/2010/02/senzokudenyentoshi_1st.html




そして

時は明治維新から40年経過した頃。













明治40年の東京府の人口は214万人明治15年は88万人、実に1年で5万人ずつ増える、という人口爆発状態。人やモノが過密化し、都心部でもどんどん自然が失われてきます。東京市も「人が憩える公園を作ろう!」と考え始めるんですが、すでに都心部に土地はない。そうなってくると出てくるのは「じゃあ交通の便がいい東京郊外に公園を作ろうよ」という発想。


ではどこに造るのか。


■写真出典:港区立港郷土資料館「愛宕山からみた明治中期の東京」
 http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/muse/j/index.cgi














当時、甲武鉄道(現在の中央線)が開通(明治22年)して候補地として注目されたのが「吉祥寺」の井の頭池周辺東京市公園改良委員会で井の頭公園が具体的に検討されたのが明治43年のこと。しかし当時の井の頭一帯は帝室の御林であり、公園造園など畏れ多い。計画の中心者である当時の東京市長 阪谷芳郎氏は大いに悩んだんでしょう。

■写真出典:小さな祈り(個人ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/an_doughnut/e/c22b4d3be449cf9e61ddd9415fb54193




しかし転機はやってきます。
















時はそれから3年を経た大正2年3月(推定)の東京市養育院卒業式の日。院長の渋沢栄一氏に呼ばれたのが、当時の東京市道路課の園芸主任 井下清氏。渋沢氏は「井之頭学校に花壇をつくりたいんだが」と相談する予定だったんですね。しかしそれを聞いた井上氏は「花壇はよろしいですね。でもどうせだったら、公園をつくりましょう。今日学校を旅立つ卒業生たちも憩えますから(文言はやや推測)」と切り出したところ、「それはいいじゃないか」と快諾。

■写真出典:井上清氏 (Studio-Lブログ 個人ブログ)
 http://studio-l-org.blogspot.jp/2004_10_01_archive.html


財界重鎮と都職員の、このなにげない会話が契機となり、渋沢栄一氏は宮内庁への働きかけを進めていきます。一方の井上氏は計画立案へと奔走、その一見アンバランスな歯車の両輪にフル稼働して日本で最初となる郊外公園構想が具体化していくんです。

歴史にIFはありません、ただこの両人の出会いや何気ない一言が無ければ、今、井の頭公園は存在していないのかもしれません。

何が契機になるか本当にわからないものですね。




■参考文献:「井の頭恩賜公園」(中公新書)

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