第85回 幻の井の頭線計画?小田急電鉄と井の頭線の接続線の謎を追う!(4)









1700形

ということで、今回のBlog de 吉祥寺は「閑話」ですが「休題」ではなく、今回は幻の井の頭線に関するスピンアウト的話題を少々お送りします。

さて、1945年4月の東京大空襲で永福町車両基地に壊滅的打撃を受けた井の頭線。その後に現在の新代田駅と小田急の世田谷代田駅の間を、旧日本陸軍工兵隊の鉄道連隊の活躍により、わずか2週間足らずで両線の線路を直結。人海戦術で井の頭線の線路に小田急や東急から車両を運び入れ、何とか命がつないだ、というのが前回までの特集のあらすじですね。写真は急きょ、東急から入ってきた新車の1700形という車両なんだそうです。今回はこの1700形の数奇な運命にスポットをあててみましょう。


■写真出典:個人ブログ 

http://home.a00.itscom.net/yosan/densya/keio/keio.html




1945年8月


終戦を迎え、いよいよ東京の鉄道復興が始まります。、井の頭線といえば、戦災から焼け伸びた2両、小田急からの10両で運用を再開。井の頭線は開通当時から「電車(汽車ではなく)」の路線、汽車もなく戦後しばらくは電力不足から厳しいダイヤでの運用に耐えていました。1946年には東横線で新車として投入される予定であった新造車両を初めとして12両、国鉄から4両が投入され、なんとか急場をギリギリしのいでいくことになります。終戦直後の井の頭線東横線小田急線国鉄の車両が混在して走っていたということでしょう。今では考えられない話です。


ちなみに井の頭線を救った東急東横線向であった新造車両こそが先の1700形という車両。車両の長さが17mある最新鋭車両です。この1700形、井の頭線の主力電車となり、それから約15年の長きにわたり、井の頭線の戦後の復興を支えることになります。

しかし戦後の急造車両、老朽化が少しずつ進んできます。






















1962年にはステンレスの最新鋭車両、井の頭線の3000形が投入されます。1700形はその活躍を見届けた後に井の頭線を引退、京王電鉄に移籍、北野駅~高尾山口駅間に投入され、高尾山への向かう観光客や八王子の新興住宅地からの通勤・通学客の足として活躍する第二の人生を歩みます。


■写真出典:Wikipedia 3000形

そしてその後、1972年に京王線の新型6000形車両が投入されます。1700形は、またもその活躍を見届けた後に、今後は東京から遠く離れた滋賀県へ。そして近江鉄道に移籍、近江八幡や米原界隈の地域を支える足として第三の人生を歩むことなります。そして時は流れ幾多の遍歴を経たのち、実に誕生から半世紀、2004年に岐阜の彦根駅で解体処分となります。

下の写真は近江鉄道時代のもの。ブログ冒頭の写真が京王電鉄高幡不動駅での写真。カラーリングは異なり、改造を受けていても面影はありますね。そして上の井の頭線の3000形ともデザイン上の共通点が感じられます。

 




















■写真出典:Wikipedia 近江鉄道
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%8E%8B%E3%83%87%E3%83%8F1700%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A


当初、東急東横線を支えるために誕生したこの1700形の車両、本来ならば渋谷と横浜を往復して神奈川県下の交通の要となる運命を約束されていたはず。しかし戦後の混乱期に「代田連絡線」という幻の線路が出現、井の頭線に移籍したあたりから、その運命の数奇が始まっていたのかもしれません。

今から9年前に滋賀県で解体されていなければ、まさに幻の「代田連絡線」の生き証人、是非会ってみたかったところですね。

























 ということで次回は、昭和28年に廃止となった「代田連絡線」特集の最終回。その足跡を振り返ってみたいと思います。


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