第86回 幻の井の頭線計画?小田急電鉄と井の頭線の接続線の謎を追う!(5)




















昭和28年(1953年)

戦後の日本景気再興を支えた朝鮮戦争が休戦となり、東京都下も戦災から少しずつ復興が進んでいます。この年のエポックメイキングな出来事といえばNHKや日本放送によってTVの本放送が始まったこと

 お茶の間で放映される様になった野球、この年の山場は巨人対阪神ダブルヘッダー。天王山に連勝した巨人がリーグ優勝3年連続日本一に輝くという、大いに盛り上がった年でもありました。その2年前の1951年には武蔵野市の旧中島飛行場跡地に武蔵野グリーンパーク球場が開設されていますね。

■写真出典:goo地図
http://map.goo.ne.jp/history/


その頃には、井の頭線の戦中戦後の復興の要となった代田連絡線も使用されなくなり、ほとんど廃線同様に放置されていました。沿線も少しずつ宅地化が進み「早く撤去して」との声が上がり始めます。そんな時に「井の頭線に新しい車両を」という話が浮上します。新しい車両とは1900形という名前で、車体はそれまでよりグンと大きくなっていました。都心の空襲被災者が郊外に移住した結果、井の頭線沿線でも宅地化が進み、より大きな輸送力が必要とされていたんですね。ちなみに昔、井の頭線を緑色の車両が走っていたことを記憶されている方はいらっしゃいますでしょうか。その先駆けとなる車両です。






















ただし車両を大きく重くする時の問題は、多くの人の輸送やスピードを上げられる半面、それに合わせて線路や路盤を強化するための工事が必要になる点です。そこでその工事を昭和28年に行うことになりました。そしてその際に一緒に代田連絡線が撤去されることになった訳です。そして昭和28年、代田連絡線の約8年間の歴史は幕を下し、時代の波間で失われていくことになります。

<写真出典>
■Wikipedia:京王デハ1900形
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E7%8E%8B%E3%83%87%E3%83%8F1900%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E8%BB%8A



■時は流れて60年

さて、時は流れて、それから60年後の2013年。小田急線の世田谷代田駅付近はすっかり地下化工事が進んでおり、当時とは別の風景が広がっている様です。撤去から60年後の代田連絡線跡はどうなっているんでしょうか。

まずは次の2枚の地図のA~Eの地点について写真を見てみましょう。写真は昭和22年のもの。代田連絡線がはっきり写っているのがわかります。

































◎A地点





 白い部分は小田急地下化工事の遮音壁ですね。着工前はここにはっきり代田連絡線の分岐後があったそうで。今でもゆるいカーブを描きながら左に消える路線敷地後を遮音壁に沿って確認できます。


◎B地点




 
















道路に斜角に入る道路。これはまさに路線敷地上の道路といえるでしょう。




◎C地点


  



















ここがいわゆる「戦場にかける橋」。世田谷の窪地に橋をかけた地点です。住居の敷地区画が道路に斜角をもって入っていることから、ここが路線敷地跡であったことがうかがえます。さすがに橋脚跡は残っていませんね。



◎D地点




















 井の頭線新代田駅に近いところ。ゆるくカーブを描きながら井の頭線本線への合流に向かうあたりです。この集合住宅の区画がゆるやかにアールを描いているから、このあたりが敷地跡であることが推察されますね。



◎E地点

 



















 井の頭線新代田駅付近の合流地点です。目をこらしましたが、今ではその遺構を示すものは何もないようです



■60余年に思いを馳せつつ

ということで、わずかに地形や区画から路線跡が推察されるのみ。もしかしたら個宅内に遺構があるかもしれませんが(この付近にお住まいの方、もし何か情報がありましたらぜひお寄せください)。

60余年という時が経過して、今ではすっかり世田谷区の宅地となったこの代田連絡線沿線。もはや記録でしかありませんが、ここに小田急線と井の頭線をつなぐ1本の線路が走っていたこと、そしてそれを突貫工事で作り上げた陸軍工兵隊鉄道連隊のみなさん、そして東横線からその線を通じて移籍して井の頭線を支え、つい2004年に滋賀県近江の地で解体された1700形車両など、当時の井の頭線壊滅の危機を救ったいろんな人モノに思いを馳せつつ、井の頭線に乗ってみるのも良いかもしれません。

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