第96回 吉祥寺の街が変わる!?進む再開発事業とは (8)














 









昭和9年(1934年)

この年のトピックといえば井の頭線(当時の帝都電鉄)の吉祥寺駅延伸です。以前の特集で幻の丘陵地「富士見ヶ丘」を切り崩した残土を吉祥寺駅にアプローチする盛土に活かし、開通に至ったエピソードをご紹介しました。一方で、吉祥寺に影響があった史実といえば、中央線東京駅~中野駅間の「急行」電車設定でしょうか。


1932年に御茶ノ水駅が改良され、中央線各駅停車が総武線方面に乗り入れるようになりました。その棲み分けを図るため急行電車が設定されたんです。この急行電車、1961年に有料の「急行アルプス」が設定されるまで続き、急行アルプス設定を機にみなさんも馴染み深い「快速」と改称されます。

ちなみに 快速電車の英語名は Chuo Line Rapid Service。中央線区間の総武線はchuo line local serviceです。普段使いの我々には良いですが、初めて東京を訪れた訪日外国人客にはわかりにくそう。JR東日本運転系統上の”常識”なのかもしれませんが、2020年に向けてサービスで分けるのではなく、実態に近い「黄色の車両=路線=総武線= the soubuline」として整理した方が良いのではないでしょうか。余談ですが首都圏の電車路線図に"like a spider net!"と驚く訪日外国人の皆さん、紋切型といってよいほど多いような。東京土産で路線図を買われる人もちらほら。まさにコンテンツといっても過言ではないでしょう。
 

余談でしたが今回は1930年代の吉祥寺駅南口から見ていくことにしましょう。

■地図出典:帝国陸軍参謀本部陸地測量部発行(大正11年)






原っぱ

1930年代の昭和初期、ドイツではナチス政権が生まれ、東アジアでは日中戦争と、グローバルなブロック経済化が進み少しずつ第二次大戦への足音が聞こえ始める時代。その頃の吉祥寺駅南口はというと"ほぼ空き地"でした。


そこには幅員の狭い道路を路線バスが人をかき分けて進むパークロード商店街、往時の「すずらん通り」が通るのみ。ちなみにこのパークロード、中央線(甲武鉄道)建設前は、東は「末広通り」、西は「中道通り」と一本道、五日市街道の南側をとおる田んぼ道であったと言われています。まだ屋根や壁麺が少なかった井の頭線吉祥寺駅ホームから奥多摩の山々富士山が見えたんだとか。今では施設・建物に囲まれて風景など望むべくもないのですが。








 




1940年代~戦後~1950年代になると、全国的に闇市が衰微し商店街に入れ替わっていきます。吉祥寺駅南口にも次第に商店が増え、駅前にはパチンコ屋、バー、レストラン、すし屋などが立ち並ぶ様になります。そしてその核になったのが南口駅前の駅前広場。現在建て替え中の京王吉祥寺ビル~以前のユザワヤ、ターミナル・エコーはその当時は存在すらせず、そのスペースが駅前広場になっていました。そこにはバスやタクシーが乗り付けていました。
















 
バス通りは現在の井の頭駅吉祥寺駅のホーム下の道路、移転してしまいましたが油そばの名店「ぶぶか」の通りです。今は面影がありませんが、往時はこの通りが駅前通りだったんです。なので、今回進められている吉祥寺南口駅前地区再開発計画(南口駅前広場事業)は決して新しいものではなく、「都市計画道路3・3・14号線を再整備して往時の吉祥寺駅南口の姿を取り戻そう」という動きと捉えてみると、見え方が変わってきます。

■写真出典:昭和初期の吉祥寺駅前商店街(武蔵野市HP)
http://www.city.musashino.lg.jp/musashino_profile/rekishinenpyo/001776.html

■写真出典:逢えるじゃないか また明日(個人ブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/sasuraino777/45389902.h
tml





  















 
吉祥寺駅南口から今の吉祥寺の街につながる動きとしては1937年の劇団前進座による集団住宅建設でしょうか。

東日本震災で耐震化に迫られた中核病院の吉祥寺南病院。その拡張のため惜しまれつつ2013年に閉鎖となりました。もともと1982年に劇場建物ができる前は「創造(稽古)と生活(住居と食糧(田畑・養鶏))を統合した理想の場」を掲げた劇団員用の集合住宅がありました。まさに吉祥寺に演劇の香りを持ち込んだ吉祥寺創世記の出来事。戦前の吉祥寺駅南口のエポックメイキングです。

■出典:日刊スポーツ
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20120302-911783.html



戦後の吉祥寺駅南口の大きな変化といえば、やはり「多摩青果市場」の開設でしょうか。1947年に東京多摩青果株式会社が吉祥寺駅南口に開設した生鮮品の卸売市場です。もともと戦中の物価統制のもと、東京都で1社に絞られた青果会社がそのルーツ。戦後に分割され、現在の駅南口にある吉祥寺オリオン座の前、吉祥寺大通り周辺に市場を構えました


その頃の吉祥寺駅には、現在の駅ホームの東側に貨物駅ホームがあり、青果を乗せた貨物車が停車していました。現在からすれば考えられない構造ですね。






















その後、吉祥寺駅周辺再開発事業が計画決定されると、同市場は三鷹へ移転し、1965年には吉祥寺駅での貨物取扱いも廃止となります。現在、同社は国立に本社を構え、さらなる発展を見せています。ちなみにその頃の初期の南口広場の拡張計画は現在の吉祥寺大通りから井の頭線高架下まで利用を想定した大規模なものでした。吉祥寺大通りは重要な道路ですが、もし多摩青果市場が吉祥寺に残っていれば、街にまた違った彩りを添えたことでしょう。

■くにたちインデックス
http://www.vis-kunitachi.jp/miryoku-archives/27276/

■Blog de 吉祥寺 副々都心の商業地域へ!?
http://www.kichijoji-city.com/2011/04/blog-post_8.html


 

そしてもう1つの大きな変化といえば、以前特集した1960年の丸井吉祥寺店開業ということになるでしょうか。もともとこの場所は「清鳳閣」という結婚式場でしたが、現地を歩くと今もその名残を見ることができます。

さて、戦後の南口と関連する変化をざっとまとめてみました。
 
 1934年 吉祥寺駅南口開設
 1937年 前進座集合住宅開設
 1940年 商店が少しずつ立ち並ぶ様になる
 1947年 多摩青果市場開設
 1947年 古屋洋裁教室(現在の古屋学園)開設
 1957年 武蔵野市の人口が増加。10万人突破
 1960年 丸井吉祥寺店開業
 1964年 吉祥寺駅北口再開発 計画決定
 1965年 吉祥寺駅での貨物取扱いを廃止。
 1969年 吉祥寺駅南口広場の廃止(1960年半ば~後半)
        吉祥寺駅の高架駅化
        吉祥寺ロンロン開業
 1970年 ターミナルエコー開設
 1978年 丸井吉祥寺店リニューアル
 1987年 吉祥寺駅北口広場開設
 1989年 吉祥寺ロンロンリニューアル
 2010年 京王吉祥寺ビル・地下通路閉鎖
 2000年 吉祥寺駅南口再開発計画


という流れとなります。























これを見ると、密集して固着した動脈瘤の様だった吉祥寺の街の人の流れを道路拡幅でスムーズにして、商業・文化・自然の回遊促進を図りたい、という「吉祥寺グランドデザイン」の要諦や、吉祥寺の都市としての強みといったものが立体的に見えてきます。

ということで、次回は駅南口再開発事業編のまとめ!です。