第99回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(1)



















本日は武蔵野市長選挙の投票日

10月6日(日)は武蔵野市長選挙の投票日ですね。現職市長の邑上候補、そして対するは元市議の木崎候補、深田候補のお二方。2014年から大きく変わり始める吉祥寺の街。その方向性を左右する大切な選挙となります。吉祥寺の街づくりに関する論点がイマイチ明確になっていない感はありますが、武蔵野市民の皆さん、ぜひ投票へ足を運んでみてはいかがでしょうか。


■参考:閑話休題:10月6日は吉祥寺を左右する「武蔵野市長選挙」です
      http://www.kichijoji-city.com/2013/09/106.html

今回の特集は、その吉祥寺の街の「歴史」の三度振り返りと整理、そしてその大事な基盤である「井の頭線」の「幻の計画」を見ていくことにします。








 
















時は今から約150年前 

1868年4月、歴史的な「江戸城の無血開城」を経て、明治新政府が江戸市中をほぼ掌握します。そして江戸市中を統括していた江戸幕府「町奉行」に代わり「江戸府」を設置します。町奉行といえば大岡忠相(越前守)が有名人です。このイメージから町奉行=「司法」「警察」的な役割が想像されますが、実は寺社や財政を除く「幅広い行政の領域」を所管していました

そして、そのトップが奉行職。一見、警察署長的なイメージですが、幕府の中では「旗本」=いわゆる「お殿様」(大名とは異なる点は徳川家家臣である点でしょうか)が就任するハイレベルな職位。町奉行所がそのまま江戸府に移行しても、領域・格の面では、違和感があまい無い訳ですね。

そして同年7月 明治天皇が「戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」を発します。これによって江戸は東京と改称され、京都からの「遷都」が事実上成立します。それに合わせて江戸府も「東京府」へと改称され、今に繋がる「東京都」の姿がここに出来上がることになります。

明治新政府の最大のミッションは「支配地域の現状把握」。


























その初動で行われたのが、明治2年の「朱引き」。地図に線を引いて、皇居を中心に東京府内を大きく分割して「市街地」「郷村地」とする作業です。そして皇居から見て城東、城北、城南、城西という区割りが一般化したものも、この時期。現在は逆に一般的に使われなくなりつつありますが。

しかし市街地とは言いつつ、この頃の江戸市街地はまだまだ小さいもの。現在であれば「城西」の代表都市であろう「新宿」も、その頃は「郷村地」。約50年後の1920年(大正9年)に豊多摩郡内藤新宿町が東京市四谷区に編入されるまでは、江戸市街地の証たる朱引きの外側に広がる雑木林に囲まれた農村でした。
■資料:明治東京全図(国立公文書館所蔵)



その後、明治4年には戸籍法が制定され大区小区制~11大区103小区が導入(1971年)宗門人別改帳から壬申戸籍への移行(1872年)、と新制度の導入が進みます。その後は一部揺り戻しもあり、江戸時代の自治を否定する構図で府民から不評だった大区小区制の見直しを経て、現在の地方行政の根幹たる郡区町村編制法(1878年)が制定、これにより「東京15区」が成立します。このように旧体制からの迅速な変化と、その見直しが繰り返しという、まさに明治新時代の興奮の渦中だからこそ進められた荒業でしょう。



また、以前特集しましたが吉祥寺をめぐる行政区分も変化が繰り返されます


<吉祥寺の行政区分の変遷>


 江戸時代        武蔵国幕府直轄地(吉祥寺村)
 1968年(明治 1年) 武蔵県に編入
 1969年(明治 2年) 品川県6番組に編入
 1971年(明治 4年) 廃藩置県・朱引内の大区小区制の導入
               東京府多摩郡(朱引外)に編入
 1873年(明治 6年) 神奈川県第11大区4小区
 1878年(明治11年) 群区町村編成法制定
               多摩郡の4分割(東、北、西、南)
               東多摩郡(中野村、杉並村など)の東京府移管
                   神奈川県北多摩群吉祥寺村
 1889年(明治22年) 市町村制施行
                   東京市発足
                   神奈川県北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺
 1893年(明治26年) 東京市庁設置
                   東京府北多摩郡武蔵野村大字吉祥寺


江戸時代の幕府直轄地のうち、朱引外となったエリアが「武蔵県」となり、そこに編入された吉祥寺村。その後、武蔵県が3分割(千葉方面、埼玉方面、多摩方面)され、現在の北品川に県庁が設置される予定だった品川県に編入。一端、東京府に移管後に多摩郡へ。しかし多摩郡が東西南北に4分割、横浜の外国人居留人が遊歩するエリアに該当する(外国人遊歩規定)との理由で、北・南・西の三多摩が、横浜と同じ神奈川県に再移管されます。























そして1893年、明治政府の治世安定に伴う東京府の人口増加、それを支える玉川上水の水源問題に端を発した議論の中で、再び東京府に移管されて現在の姿に至ります。この時代の吉祥寺の動きは、以前の「吉祥寺の母なるガンジス~玉川上水」で特集しました。

■参考:吉祥寺のガンジス:玉川上水

     http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%AF%BA%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

■写真出典:かつての五日市街道と玉川上水(東京都水道局)







というように、明治維新の東京と、その初期の行政区画変動をざっと見てみました。ちなみに上掲の「明治東京全図」を見るとわかりますが、東京の商業文化の重心は当時、大きく東側の城東地域にありました。 


城西エリアは、いわゆる元「武家町」。武蔵野台地の東端=豊島台・淀橋台・関口台・小日向台・小石川台・白山台・本郷台などの「山の手」は、もともと参勤交代で上京した大名の上屋敷が散在していたエリアでした。以前の玉川上水特集で「玉川上水がなぜ四谷見附まで引かれたのか」という問がありましたが、「四谷見附から分水されて山の手にある多くの大名屋敷に分水されていたから」という答えがその一つでした。





















明治維新によって、このエリアの武家屋敷の多くは撤収したり、維新側の大名家と家臣団に入れ替わりました。その結果、山の手エリアに育まれた城東の江戸文化は「断絶」した、と言われています。逆に維新の体制変化の影響が少なかった城東側=いわゆる浅草や葛飾などの「下町」は江戸期の文化を色濃く今に伝えています
 

■参考資料:四谷大木戸の図(東京都水道局)
         東京「都」となるまで 渡部亮次郎(2007)
          http://blog.kajika.net/?eid=547975&target=commentform





しかし 悲運と思われた城西エリアですが、その後は、むしろ「新しい」住民を迎えて大きく発展することになります。




その契機は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)。これらを経て重工業化が進み、その工場作業員や電力需要が増加。さらに第一次世界大戦の好景気(1915~1920年)で東京への人口集中が進むと、城西エリアの市街地化は加速することになります。畑を持って農業で働くより、そこに家を建てれば多くの家賃収入が得られる、との背景もありました。

そして1923年の関東大震災



















マグニチュード7.9の大地震は震源に近い神奈川県に大きな被害をもたらしました。同時に、東京都都心部の多くが火災で焼失。その後の「帝都復興審議会」による復興計画では道路拡張や区画整理などインフラ整備が優先され、都心部の人口収容力が低下。都心部人口の流出が進み、東京市西部、中野・杉並・世田谷(桜新町という「新しい町」等)といった東・北多摩郡の市街地化が加速します。吉祥寺にある「成蹊学園」も、震災翌年の1924年に池袋から移転してきた成蹊小学校・中学校・実務学校・実業専門学校が起点になっていますね。
 
 ■参考資料東京都市計画地域並地区指定ノ件1(国立公文書館所蔵)
        (関東大震災(1923)後、帝都復興期の都市計画関連図)



このように、重工業化や市街地拡大に伴う電力需要の増加中野・杉並・世田谷・武蔵野エリアの人口増加に伴って広がったのが、力を蓄えた「電力会社」による、プレゼンスのアップと売電事業拡充を狙った「鉄道(電車)建設」計画。ちなみに現在の京王電鉄、かつての京王電気軌道が設立された1910年(明治43年)当時、その主力事業は鉄道ではなく電気供給事業。1916年~1917年にかけて、吉祥寺に初めて電燈を灯したのは「京王電気軌道」です。


そのような動きの中で、1928年(昭和3年)、渋谷町と武蔵野村を結ぶ1本の鉄道計画が鉄道省に申請されます。その名も城西エリアと北多摩郡を南北方向に結ぶ「城西電気鉄道」。これが現在の「井の頭線」の原形になります。
























■資料:鉄道省への申請書(1928年)鉄道省文書






そのような「井の頭線の開通秘話」は以前の特集で触れました。


■参考:井の頭線に迫る!
http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E4%BA%95%E3%81%AE%E9%A0%AD%E7%B7%9A%E3%81%AB%E8%BF%AB%E3%82%8B%EF%BC%81

■参考:総力特集 井の頭線延伸計画を追う
http://www.kichijoji-city.com/2010/09/blog-post_24.html

井の頭線はご存じのとおり渋谷駅~吉祥寺駅間を結ぶ鉄道です。ただしその昔、吉祥寺駅~渋谷駅間の本線以外に「幻の支線計画」があったことはあまり知られていません。 

今回の特集では、その「幻の計画」を追ってみることにしましょう。


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