第100回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(2)
2014年に向けて
2013年の武蔵野市長選挙(10月6日投開票)が終了しました。現市長の邑上候補が25573票を獲得、他候補に10000票以上の差をつけて結果確定となりました。平成23年の市議会議員選挙における会派別の得票数内訳をベースにした得票予測値(Blog de 吉祥寺推計)からすると、邑上陣営はほぼ足元票を固めつつ、2位候補であった木崎候補は、実に獲得予測票の1/3以上を他候補に流出させ、深田候補は想像以上に善戦であったということになります。
気になる投票率は41.29%。前回比で約1.75ポイント減としつつも、事前の下馬評に対して40%台を維持。ちなみに投票率トップは「千川小学校(武蔵野市八幡町)」、続いて「高齢者総合センター(武蔵野市緑町)」「第四中学校(武蔵野市吉祥寺北町5丁目」と、いずれも武蔵野市中央部ですね。一方、投票率が低かったのは「御殿山コミュニティセンター(御殿山)」「井之頭小学校(吉祥寺本町3丁目)」など、三鷹市と接する地域です。いずれも平成21年選挙と傾向は、ほぼ同様です。
■参考:武蔵野市長選投開票結果(速報)
http://www.city.musashino.lg.jp/senkyo/shicho_senkyo/touhyou_chiiku.html
■参考:2013年10月12日 日本経済新聞紙に興味深い記事が掲載されていました
◆日本経済新聞紙版
「 吉祥寺が変わります 駅前再開発、個性派商店は西に拡大」
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO60930930Q3A011C1L71000/
こちらも合わせてどうぞ
◆Blog de 吉祥寺版
「吉祥寺の街が変わる!?進む再開発事業とは」編(2013年9月29日)
http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%86%8D%E9%96%8B%E7%99%BA%EF%BC%92
さて、幻の支線
の前に、井の頭線の歴史秘話を少し紐解いてみましょう。井の頭線の建設時の秘話、戦時中に壊滅しかけた井の頭線を救うための「連絡線」特集は記憶に新しいところです。そもそも井の頭線は、現在でこそ京王電鉄の一路線ですが、もともとは小田急線と縁深い電車。井の頭線と小田急線、これらはともに鬼怒川水力電気という電力会社の社長「利光鶴松」さんが経営を担っていた、というのはよく知られた話です。
特集
「幻の井の頭線計画?小田急電鉄と井の頭線の接続線の謎を追う!」
■用地買収&高架掘削の当時の最新開発手法で建設
http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post.html#more
■井の頭線の壊滅危機
http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post_9.html#more
■陸軍鉄道連隊による644mの作戦
http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post_15.html#more
■1700形車両の哀史
http://www.kichijoji-city.com/2013/06/4.html#more
■時は流れて現在の連絡線跡を追う
http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post_30.html#more
そもそも
前回の通り、井の頭線は東京府の城西地区を走る「城西電気鉄道」として免許申請がなされた路線。当時の電車はまさにベンチャービジネス。東京府域でも多くの設立計画がありました。利光氏は、城西急行電鉄を1928年に「渋谷急行電鉄」に名称が変えて、着工に向けて準備を進めます。
しかし、その頃の渋谷急行電鉄(現在の井の頭線)は、現在と計画されているルートが異なっていたことは、あまり知られていません。
もともと、1927年に免許申請された時のルートですが、渋谷駅の手前から出発して、下北沢付近を通り、現在の東松原駅付近までは現在と同じ 。しかしそこからが少し異なります。現在の井の頭線は、東松原駅から北に進路を変えて明大前駅を通り、永福町方面へと抜けていきます。しかし当時の計画は東松原駅からさらに西北西をめざし、下高井戸駅付近を抜けて、玉川上水に沿う形で、杉並区上高井戸や国学院大学、三鷹市井の頭付近を抜けて、井の頭恩賜公園の南側を回り込んで向きを変えて、御殿山付近を抜けて吉祥寺駅に至るルート、現在の井の頭線のルートの南側を抜けていました。
ちなみに御殿山に何があるかと言えば、渋沢栄一氏の「井の頭学校」ですね。かつ「吉祥寺の再開発」特集でも触れましたが、江戸期より井の頭池・弁財天への参拝ルートは玉川上水沿い。弁財天へは井の頭池の南側からのアプローチが一般的でした。その構図を忠実に倣いつつ、吉祥寺駅での国鉄接続を考えた場合、実はこのルーティングが最適解です。
また、このルートは城西電気鉄道のコンセプトであった「高架と掘割で、できるだけ踏切を少なくして、高速で城西エリアを移動する」という点でも適していたのでしょう(玉川上水沿いは台地ですので)。実は掘割で生じた残土で沿線の土地開発・住宅建設を進めようという壮大な計画でした。
しかし、肝心なのは高架と掘割にかかるコスト。日露戦争(1904~1905)の余韻を駆り、震災復興(1923年~)の勢いの中での計画であればともあれ、時代は変わって昭和恐慌(1929年~)の時代では、そこまでコストのかかる計画は進められようもありません。当然、資金難となり計画が頓挫、免許も失効か??、という中で城西電気鉄道を買い取ったのが「利光鶴松」さんでした。
そして利光鶴松さんが温めていたもう1つの路線が1927年に免許申請された「東京山手急行電鉄」。大井町→世田谷→松沢(現在の明大前駅)→板橋→千住→洲崎という、まさに第二山手線と言わんばかりの計画。
当然、昭和恐慌下で、いかに電力会社総帥の利光鶴松さんでも実現は厳しい話。すでに発展しつつある街での用地買収に苦心することとなり、すべての道路や鉄道と立体交差とするための道路管理主体や事業者間の交渉など、この計画は少し壮大過ぎたのかもしれません。ちなみに上の図で渋谷駅の手前が赤く引かれていますが、路線用地買収が不調で進まず、着工期限の延長を申請した文章の添付図です。
■資料:東京山手急行路線図(国立公文書館所蔵)
そこで、利光鶴松氏がとった奇策が、井の頭線のルート変更(1929年)。
先の当初計画から、現在の井の頭線のルートに変更します。この狙いは2つ考えられます。1つは当初の玉川上水沿いの武蔵野台地を掘割で開発することを諦め、神田川沿いの低地にそって、井の頭恩賜公園まで到達して、そこから一気に盛土と高架で武蔵野台地に上がり吉祥寺に達するルートとして、堀割をと路線長を極力減らし開発コストが圧縮できるという点。
そしてもう1つは、現在の東松原駅から西に進まず北に進めて松沢駅(明大前駅)を通し、少し大きめに開発余地を残しておくことで、「東京山手急行電鉄」の開発に向けた布石が打てる、というものです。
■資料:現在の明大前駅周辺地形図(明大前駅周辺は窪地) yahoo map
3つ上の図(渋谷急行電鉄の計画図)を見て頂くとわかると思いますが、ちょうど計画線が京王電鉄と交わるあたり(現在の下高井戸付近)のすぐ東側に南北方向へとひかれた路線、これが東京山手急行電鉄の計画線です。その路線と京王電鉄の交点こそ松沢駅、現在の明大前駅になります。渋谷急行電鉄の当初計画を東側にルート変更し、明大前駅を通して先行開発する計画へと改めることで、駅開発費用対効果と事業全体の採算性を高めたのですね。
■資料:渋谷急行電鉄の計画線変更の申請(国立公文書館所蔵)他
早速、利光鶴松氏は1930年に新しく東京郊外鉄道(元:東京山手急行電鉄)という受け皿会社を立ち上げ、渋谷急行電鉄を合併します。そしてその先行計画として井の頭線の開発をスタートします。しかしその後、利光鶴松氏は、第二次世界大戦色が濃厚となった「日本政府の電力国家管理政策」の元、虎の子の鬼怒川水力発電を国策会社「日本発送電」に併合させられ、その資金力を大幅に落とします。そして東京郊外鉄道(東京山手急行電鉄)は夢のまま免許失効に至ることになります。
ところで
よく噂になるのが明大前駅の北側にある「4線分が確保された水道橋」。井の頭線の本線2線の右側に2本の線路を敷くことができる様に築造されています。さらに右手、明大前駅渋谷駅方面ホーム側の崖がなだらかなのは、ここを追加掘削して線路を引きやすくしていた為ですね。
■資料:明大前駅(Wikiedia) 中央の2本の線路の右側に2線分が確保されている
これこそ先行開発計画の証、東京郊外鉄道の夢の跡です。
ちなみに、東京都・報道発表資料(2012/09/10)の「京王電鉄京王線(笹塚駅~つつじヶ丘駅間)連続立体交差化及び複々線化事業の環境影響評価書」によれば、井の頭線のさらに地下に特急用のトンネルを掘って、明大前駅は京王電鉄の「特急通過」駅になるんだとか。
■資料:京王電鉄 環境影響評価書(2012)
古くは、東京山手急行電鉄の夢が残る明大前駅ですが、さらなる現代の都市化とインフラ更新の波を受けて、今後また大きく変わりそうです。皆さんも、ぜひ渋谷急行電鉄、東京郊外鉄道の計画跡、ご覧になってみてください。