第101回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(3)












玉南電気鉄道

今からざっと110年前の1904年(明治37年)の日露戦争。1943年から産経新聞に連載された司馬遼太郎「坂の上の雲」の舞台、日本とロシア間の戦争です。「203高地」「日本海海戦」で有名ですが、実は裏のハイライト日銀副総裁の高橋是清氏らの尽力による欧米金融市場で外債発行による戦費調達の成功です。その起債時の発行団に名を連ねたのがユダヤ人迫害を推進するロシア帝国と敵対した名門ロスチャイルド家のライオネル・ド・ロスチャイルド氏。

そして当時のロスチャイルド家が有望投資先としていたのが「鉄道」市場でした。当時の長距離輸送は運河航行する船舶か荷馬車。鉄道の出現は、19世紀後半~20世紀初頭の輸送マーケットを覆すエポックメイキング、まさにベンチャービジネスというべきものでした。NY42番街のグランドセントラル駅は、往時の北米鉄道網の発展の象徴ともいうべきでしょう。


■写真出典:玉南電気鉄道 東八王子駅舎 
        飴色金魚(個人ブログ)
        http://syowavoxx.hp2.jp/1963/12/11/keio-hachioji/























■写真:NY グランドセントラル駅(wikipedia)

 
日露戦争後、調達した戦費余剰金や対ロシア軍事費の増大が日本にインフレをもたらします。債務拡大という財政政策の穴を金融緩和政策で埋めながらインフレをもたらす構図、当時の大蔵省が日銀を統制下においていたからこそですが、実はこの光景、現在の日銀による「異次元緩和」によるデフレ克服とつながる話ですね。ともあれ結果として、市中銀行の信用乗数が増大、明治33年~大正2年の10年強で日本のGNPは2.1倍とバブルの様相を呈します。


その旺盛な資金の矛先が向けられたのが、当時欧米先進国で成功を収めつつあった鉄道ビジネスでした。

ちなみに第二次大戦終戦直後、壊滅寸前だった井の頭線を小田急線との連絡線敷設で救った「陸軍工兵隊鉄道連隊」の前身「陸軍野戦鉄道提理部」が活躍した中国大陸の南満州鉄道改軌(ロシアの線路幅から日本の線路幅に変更して、日本からの資機材を使える様にする)が1906年のこと。まさしく対ロシア戦略の一環、当時の鉄道輸送のプレゼンスを示すものでしょう。



■幻の井の頭線計画?小田急電鉄と井の頭線の接続線の謎を追う!
  http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post_9.html
  http://www.kichijoji-city.com/2013/06/blog-post_15.html























■小田急と井の頭線の連絡線跡(推定図)


そんな鉄道起業バブルの時代に設立された吉祥寺に馴染みある軌道・鉄道会社や路線

 1910年 京王電気軌道株式会社(新宿~府中)
 1922年 玉南電気鉄道株式会社(府中~東八王子)
 1933年 帝都電鉄株式会社(渋谷~吉祥寺)
 1934年 中央線支線(下河原線)(国分寺~東京競馬場前)


の4つの路線・会社でしょうか。

ちなみに「軌道」は路面電車「鉄道」は当時の地方鉄道法に基づく文字通りの鉄道です。京王は路面電車が起源の軌道。「鉄道」に変更するための申請提出は、開業からずっと後の時代。それは1945年8月15日、終戦の日です。


玉南電気鉄道はあまり耳慣れない感じです。

当時は鉄道バブルとはいえ、それほど遠距離輸送のニーズは少なく、ビジネスとしてはまだまだ孵化前の先行投資の段階。経営が苦しい中で、京王電気軌道が出資して「地方鉄道敷設」に伴う「政府補助金」を得ようと、京王電気軌道と分けて地元町村の有志と別会社で立ち上げたのが同社です。設立時の資本金150万円のうち40万円を京王電気軌道が負担しています。

しかし後に政府補助金の不交付が確定して見込みが外れると即、京王電気軌道は同社を合併、1928年には新宿~東八王子間の直通運転を開始します。









 

■写真出典:京王電気軌道路線図/WEB地図の資料館
http://www.asocie.jp/oldmap/tokyo/13002.html




 

ちなみに当時からのライバルは、併走する中央線。1928年当時は

 京王電気軌道 新宿~東八王子 56往復/日 68分
 鉄道省中央線  新宿~八王子 12往復/日 70分


という状況。しかも立川~浅川(現在の高尾駅)間は蒸気機関車。そのため京王が本数・所要時間ともリードしていました。


 













■資料出典:開通当時の京王電鉄(路面電車)
http://www.keio.co.jp/train/museum/history/prewar.html


 

しかし鉄道バブルの当時、中央線も手をこまねいている訳ではありません。

 1930年 立川駅~浅川駅間が電化・直通運転開始
 1933年 平日のみ御茶ノ水駅~中野駅間で急行電車の運転開始
 1944年 急行電車運行を休日に拡大


と矢継ぎ早にインフラ・体制を大幅増強。他路線で使用予定だった新型車両も転用投入させ京王電気軌道を劣勢に追い込みます


さらに1939年には国策電力会社「日本発送電株式会社」が設立。1941年の配電統制令で、京王電気軌道は、その利益の半分を稼いだ虎の子の配電事業を分離することになり、さらに苦境へ。同様に鬼怒川水力を失った利光鶴松氏が帝都電鉄経営を1942年に東急に託した伏線にもつながります。戦時体制の1944年には陸上交通事業調整法が施行され京王・小田急は東急に併合、戦後の1948年に再び東急から分離独立した後も劣勢は変わりません。







 









 ■資料:利光鶴松氏


そんな時に京王が起死回生で立案したプランが、

 ・府中~東八王子駅間の単線化
 ・線路幅の変更による国鉄下河原線への乗り入れ
 ・国鉄八王子駅への乗り入れ 

 

というもの。
 
つまり、新宿~東八王子間で対中央線戦争で白旗を上げて鉄道事業を縮小、一方で下河原線乗り入れにより、戦後都市インフラ復興で使用する多摩川砂利輸送のビジネスを立ち上げて、全社事業を補完して経営も安定させるプランです。1933年頃から調布付近の砂利採取が制限され、府中市是政~中河原の多摩川の河原が主要な鉱区となっていました。

そしてもう1つが、経営統合された井の頭線の拡大。1948年の分離独立で、帝都電鉄は京王電気軌道と共に京王帝都電鉄井の頭線として新たなスタートを切ります。実は井の頭線は沿線都市化も進み、旅客もついた安定収入源。このさらなる拡大を図るのも頷けます。そこで京王が1948年に免許申請したプランこそ、よく知られる「吉祥寺~東久留米駅」間の井の頭線の延伸です。 



<関連ブログ>
■総力特集!東京山手急行電鉄や東京郊外鉄道って何?
http://www.kichijoji-city.com/2010/09/blog-post_15.html

■総力特集 井の頭線延伸計画を追う
http://www.kichijoji-city.com/2010/09/blog-post_22.html


























■資料:延伸計画の免許申請資料(国立公文書館所蔵)


ただし 戦後の復興期で物資が不足していた時代、延長に伴う線路調達も容易ではなく、資材調達計画も絵空事では当然、免許は交付されません

それをクリアする奇策こそが、京王の「府中~東八王子間の単線化」に伴う、そのレールや資材の、井の頭線延伸部への転用計画でした。井の頭線の「延伸」という側面だけで捉えられがちなこの計画ですが、実は広範な時代背景と競合関係、そして京王帝都電鉄の起死回生の大リストラクチャリングという必然の下での計画であった点は、あまり知られていません。

次回はこの計画の具体的な詳細を追っていきます。