第103回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(5)




楽天優勝

プロ野球のコナミ日本シリーズ2013で楽天(東北楽天ゴールデンイーグルス)が巨人に3-0で勝利し、7戦目で日本シリーズ優勝を果たしましたね。星野チルドレンたる楽天美馬投手がMVPに輝きました。東日本大震災復興、そして小柄な美馬投手の力投、そして星野仙一監督による田中将大投手の終盤起用、等、記憶に残る日本シリーズになりました。


ところで、楽天の星野仙一監督といえば現役時代、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団、以降「巨人キラー」で名を馳せて現役時代を全うし、その後は中日ドラゴンズ監督して2001年まで活躍していました。この頃のドラゴンズブルーのユニフォームの印象が強い方も多いのではないでしょうか。

■写真出典:産経スポーツ
http://sankei.jp.msn.com/sports/photos/131103/bbl13110322050013-p1.htm
 




今回の特集の舞台となる終戦後、1948年8月17日。


横浜のルー・ゲーリッグスタジアム(横浜公園平和野球場)で開催されたのが、実は「巨人」VS「中日」戦。激闘の末、試合は3対2で中日ドラゴンズの勝利。この試合、実は日本プロ野球初の「ナイトゲーム」でした。戦後のプロ野球の復興を示すこのビッグゲーム、今から65年前のことです。



























ちなみに

戦前のプロ野球は、アメリカの敵性スポーツとして政治的に糾弾の対象になっていました。1943年には『ストライク』=『よし一本』 『アウト』=『だめ』に審判用語が変更され、監督は『教士』選手は『戦士』と呼ばれるようになり、試合がない時は選手は工場労働に従事していました。後楽園球場の2階は高射砲陣地となり砲兵が配備され、観客席の鉄製椅子は「金属供出」で撤去され、外野は芋畑になっていたとか。

選手たちも試合前のアトラクションとして手榴弾遠投を競い、または戦地に招聘されました。楽天の田中将大選手が「無敗の最多勝投手」として、去る10月28日に受賞した「沢村賞」。この賞は投手の神様「沢村栄治」を記念して贈られる名賞ですが、沢村栄治氏も戦時中、兵役で赴いた戦地でマラリアに感染し、投手生命を絶たれたのは有名な話かもしれません。










 













■写真出典:沢村栄治氏の写真を抱える田中投手
http://www.daily.co.jp/baseball/2013/10/29/p1_0006454953.shtml

■参考:個人ブログ
http://www.geocities.co.jp/athlete/7545/newpage49.htm


 


戦後、最初のプロ野球の試合は「ステート・サイドパーク球場(現在の神宮球場)」で開催された「オール早大」VS「オール慶大」。1945年11月のこと。その翌年に日本野球連盟が復活を宣言してペナントレースが再開されます。

当時は生き残った選手に手紙で出場を促し、食糧をヤミ市で調達し、野球用具を焼け残った西宮球場から輸送するという状況。途中、ヤクザに野球用具を没収されそうになり早くもプロ野球存亡の危機に陥ったり、大変な状況だった様です。しかし当時の娯楽は「プロレス・プロ野球、相撲」。

プロ野球は娯楽の一つとして人気を博します。

にもかかわらず前述の通り、神宮球場は米軍に接収され、日本人が自由に使用することができません。そうなると東京近郊で稼働しているのは後楽園球場の他、限られた球場のみ。首都圏は慢性的な球場不足に陥っており、本格的な野球場の建設が待たれていました。

■参考:プロ野球の歴史(個人ブログ)
http://pro-baseball-history.seesaa.net/article/105931487.html



さて 話は変わり当時の井の頭線について目を移します。






















時は少しさかのぼり1945年5月、都心部が大規模な空襲被害を受け、井の頭線も永福町車庫に被弾。たった車両2両を残してほぼ壊滅し存亡の危機に立たされます。しかし井の頭線の沿線には官僚や軍関係者も多く住んでいることから復旧が急がれます。そこで考えられた奇策が「代田連絡線」。井の頭線の新代田駅(当時の代田二丁目駅)と小田急線の世田谷代田駅間を線路で結んで小田急・東京・国鉄の車両を融通しようという作戦です。

この話は以前、特集しました。




















終戦後、1947年に独占禁止法と過度経済力集中排除法が施行され、財閥企業が次々に解体されていきます。しかし戦前の陸上交通事業調整法で合併した鉄道会社は、経済力集中が脅威にはならない、との理由で対象外となりました。しかし、1944年に東急に合併されていた京王電気軌道、帝都電鉄内部でも東急から分離独立の機運が高まります。

1948年

東急の総帥である五島慶太氏は公職追放、そして空襲被害の大きかった東急は合併線の復旧に手を回す余裕がないこともあり、終戦間もない1948年に小田急、京浜急行、京王電気軌道の分離独立が成立します。




 

















■写真出典:北原遼三郎「東急・五島慶太の生涯」

しかし、当時の京王電気軌道、虎の子の配電事業は失われインフラも路面電車ベースで、かつ前々回の通り「新宿~東八王子間」は国鉄と競合して当時はジリ貧状態ということもあり、独立が危ぶまれていました。そこで被災はしつつもドル箱路線であった帝都電鉄を合併して「京王帝都電鉄」として発足、経営安定への第一歩を踏み出します。ちなみに幻の「代田連絡線」も帝都電鉄と共に1953年の撤去まで京王が継承することになります。





















そして京王が考えたのがドル箱路線「井の頭線」の延長による経営基盤のさらなる安定化。東急に再合併ということにならない様、積極経営で安定収益を模索する必要がありました。

そんな時に持ち上がったのが「中島飛行機武蔵製作所・多摩製作所跡地の活用」。ちなみに中島飛行機は戦前・戦中は東洋最大、世界有数の航空機メーカーでした。宮崎駿監督作品「風立ちぬ」で、主人公の堀越二郎氏(三菱重工業航空機設計主務)が設計したゼロ戦(零式艦上戦闘機)の2/3以上を受託生産したのも同社武蔵野製作所ですね。

そんな背景から武蔵野製作所は米軍の戦略爆撃の対象となりましたが、誤って爆弾を投下されて被災したのが、当時の帝都電鉄永福町工場(井の頭線永福町車両基地)ですね。これで井の頭線は壊滅危機と陥ります。


1947年

戦後、同社は分割解体となり、富士産業株式会社と名前を変えて新生を図ります。ちなみに航空機設計・製造を一切禁止された同社が注力した市場が「自動車」。かつての航空機設計・製造の技術力は現在の富士重工業(スバル)に受け継がれていきます。ちなみにスバルが得意の水平対向エンジン、コンパクトで高出力であることが特徴です。現在の燃費競争の時代ではツラいですが、ポルシェ等に搭載されている様にスポーツカー等とは親和性が高く、航空機エンジンを源流とする同社ならではといえます。





 













はいえ

従業員が全員、富士産業に移った訳ではありません。当時のGHQの民主化政策の一つが労働組合の育成。労働争議や激しいストライキが多発していた時代です。処遇安定・改善を求めた旧中島飛行機残留従業員の労働組合が旧武蔵製作所土地の払い下げを勝ち取って設立したのが「武蔵野に文化を」の名の下で設立された武蔵野文化都市建設株式会社。1947年のことです。















 





社長は当時、武蔵野市西窪に住み、逓信院総裁を辞任したばかりの大物、松前重義氏。ちなみに同氏はこの流れから1952年の総選挙で右派社会党から衆議院議員に初当選を果たします。

また同氏は逓信院(現在の郵政省+NTT)のエンジニア出身。跡地に通研(現在:NTT武蔵野電気通信研究所)を誘致しています

■写真:松前重義氏



























そして、この武蔵野文化都市建設株式会社が計画したのが、当時首都圏で慢性的に不足していた「野球場」建設。需要も見込め、GHQの受けも良い訳です。1950年に同社は「株式会社東京グリーンパーク」に名前を改称して、本格的に球場建設計画を進めます。




■出典:武蔵野市議会報(昭和27年)


そして、それをチャンスととらえたのが1948年に東急からの分離独立後、井の頭線の拡張を通じて経営基盤の安定を模索していた「京王帝都電鉄」。そして郊外球場のため、そのアクセスルートの充実を図りたかった株式会社東京グリーンパーク

この両社の想いが錯綜しながら「井の頭線延伸計画」が浮上してきます。


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