第104回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(6)
現在の西東京市・東久留米市にまたがるエリアに、昭和34年に開発された、計画戸数2714戸、想定居住人数が10000人に達する当時の日本住宅公団最大のマンモス団地でした。現在は建て替えが進み「ひばりが丘パークヒルズ」と名を換えて新たな住民も増えています。
近隣の開発も進み、コープとうきょうひばりが丘店、西友ひばりが丘団地店、2013年4月にはイオンモール東久留米が開業しています。
また、ひばりが丘団地といえば日本住宅公団創世記の団地に残る「スターハウス」が有名ですね。建築コストの関連で段々と姿を消しましたが、現在でも1棟がひばりが丘団地の一角に保存されています。
さらに、このひばりが丘の「ひばり」といえば英語で「 a Japanese) skylark(すかいらーく)」ということで、この地にあった「ことぶき食品」という食品スーパーこそ現在の、「ガスト」や「バーミヤン」などのファミリーレストランチェーンで知られるスカイラークの原点でもあります。
出典:スカイラーク(WIKIPEDIA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%99%E3%81%8B%E3%81%84%E3%82%89%E3%83%BC%E3%81%8F
さて
このひばりが丘団地、もともと戦前にこの敷地にあったのは「中島航空金属田無製造所」、そして近隣のコープとうきょうひばりが丘店にあったのは「中島航空金属田無鋳鍛工場」の敷地の一部でした。この中島航空金属は戦前戦中と東洋最大の航空機製造企業であった「中島飛行機」傘下の子会社。
武蔵野市の武蔵野グリーンパーク球場の原点となった武蔵野文化都市建設株式会社の従業員たちの古巣「中島飛行機武蔵野製作所」。最盛期には約50000人が働き、国内最大の旅客機エンジン工場でした。
この関連の裾野工場が現在の西東京市にいくつも散在しており、戦後は中島飛行機が解体され、裾野の関連工場は民需で生き残り策を模索しました。戦車や大砲の製造・鋳造技術はそのまま重機や産業機械の製造に移行。戦車もブルドーザーも基本的な要素技術は似ています。その一つが「瑞穂産業株式会社」、現在の「住友重機械工業田無製造所」になります。(上記写真)
ちなみに工場では大量の水=工業用水が必要となります。中島飛行機武蔵野工場は「千川用水」沿いに立地し、多くを取水していました。そして千川上水といえば吉祥寺のガンジスこと「玉川上水」から分水された用水になります。
吉祥寺で起きた多くの出来事が実は「玉川上水」に深く由縁しています。
■写真:玉川上水(東京都水道局)
で、井の頭線延伸計画 ですが
国鉄中央線との戦いに敗れ、京王帝都電鉄の起死回生の一策として持ち上がったのは「井の頭線延伸計画」。その視線の先には「武蔵野グリーンパーク再開発計画」がありました。
当時、慢性的に不足していた野球場、そして将来のオリンピック開催(1964年の東京オリンピックに向けた最初の立候補は1954年(昭和29年)のこと)をも念頭に、武蔵野グリーンパークへのアクセス線を確保したい!と検討を本格化させたのは1947年のこと。同年プロ野球ペナントレースが再開され、1948年のロンドンオリンピックの前年のことでした。
その路線とはどのような計画であったのでしょうか。
Blog de 吉祥寺で想定した路線図は以下の通りです。
鉄道省への申請文書によれば、途中駅も含めて
①吉祥寺駅
②成蹊学園前
③スポーツセンター前
④葭久保
⑤田無
⑥瑞穂産業前
⑦東久留米駅
の全7駅が計画されていました。
計画書では「人口激増に対する帝都郊外の鉄道網は未だ十分ではない。欧米先進国の大都市郊外に通じる交通機関には遠く及ばない。郊外居住者は交通利便性を得られずこれは識者からも指摘されている(だから新線を開発しなければならない」と冒頭文で語られています。
また計画の実現性を高める要素として
・新線開発に伴う沿線都市開発による人口増
・都営住宅の開発
・成蹊学園夜間部の増設、その他学部学科の増加
が挙げられています。
ちなみに、要素の一つの成蹊学園、1947年に中学校、1948年に高等学校が設置。そして大学にも、1952年には医歯学進学課程(1964年廃止)、1962年に工学部、1965年に文学部が設置され、私塾(実務学校)を起源とする同大学は総合大学へと発展を遂げていますね。
■出典:成蹊学園(wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6
実は、これ以外にも商圏人口や当時の各鉄道駅や路線バスからの乗客数やそこからの吸引客数も緻密に計算された上で「成算アリ」とされています。当時からこの様なコンサルタント(ブレイン?)がいたことが伺えます。
ちなみに上記路線図ですが想定した根拠としては「東京近郊図_地理調査書_昭和28年」の吉祥寺駅近辺の土地利用状況と、 Perry-Castañeda 図書館(米テキサス大学)サイトに掲載されている「Japan City Plans」の中島飛行機武蔵野製作所近郊の軽便鉄道敷設図、並びに瑞穂産業引き込み線後に関する各種サイトの情報を統合して推定しています。
余談ですが「Japan City Plans」(旧米陸軍調査)はリッチなソースです。
出展:中島飛行機 簡便鉄道
http://hkuma.com/rail/nakaji11.html
ということで
具体的に計画線が引かれ計画が進むかと思いきや、足元の吉祥寺駅北口の商店会から猛烈な反対運動が巻き起こり頓挫することになります。昭和30年代に吉祥寺駅周辺都市計画調査特別委員会と、地元反対同盟との懇談会も幾度か開催されますが調整は難航。
しかし死中に活を見出そうとする京王帝都電鉄、そのままで引き下がれません。
この続きは次回に改めて。