第108回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(9)
ル・マン24時間レース
仏ル・マン郊外、サルト・サーキットで開催される世界3大レース(ル・マン24、FIモナコGP、インディ500)と呼ばれる伝統あるレースです。都市としてのル・マンとは日本でいえば三重県鈴鹿市みたいな感じでしょうか。鈴鹿のホンダへのそれと同様、自動車への敬愛に満ちた街です。
その2008年大会に出場したチームこそ「TOKAI UNIV. YGK POWER」、東海大学林義正教授(当時)が率いる東海大学研究室チームです。残念ながらスタート18時間でギアトラブルに見舞われリタイヤして完走ならず、でしたが前代未聞の挑戦のニュースは世界を駆け巡りました。
さて、この東海大学の「東海」とは、東海地方の「東海」ではなく、東の海=アジアの東にある太平洋のことを指しています。創立者の松前重義氏が「戦後資源の乏しい日本の発展には科学技術の開発と平和利用が必要だ」と考えて設立されたのが原点であり、その理念が今も受け継がれている様です。
そしてその東海大学の母胎こそ、武蔵野市にある「望星学塾」、1936年に松前氏が開学した私塾になります。
そもそも
この松前重義氏、真珠湾攻撃の5日前に逓信省工務局長に着任後、「こんな戦力で戦争はできん」と戦時生産研究会を立ち上げ早期和平論を展開、時の東條内閣に睨まれていました。
その結果、工務局長という要職にありながら、最下級の二等兵として徴兵され南洋戦線に派兵される、という「気骨ある憂国の士」だった様です。
戦後は、京王帝都電鉄、西武鉄道が必至でアクセスルートを競った武蔵野グリーンパーク球場/東京スタジアム建設計画を進める武蔵野文化都市建設株式会社または株式会社東京グリーンパークの社長に就任しています。
■東海大学ル・マン24時間プロジェクト
http://www.u-tokai.ac.jp/lemans/2008/from_lemans.html
■松前重義 /東海大学(写真出典)
http://www.u-tokai.ac.jp/about/collaboration/policy/
1948年12月に京王帝都電鉄、翌1949年10月に西武鉄道がグリーンパーク球場への免許を運輸省を申請し終えた頃、世間ではある噂が駆け巡っていました。「国鉄がプロ野球に参入するかもしれない」というものです。
当時の国鉄は、国策的に復員兵や海外引揚者の雇用の受け皿となり、その財政は悪化の一途でした。その結果、GHQ指令により1949年に運輸省 鉄道総局から分離、日本国有鉄道(国鉄)としてスタートを切ったわけです。ただし同年に職員95000人という空前規模の人員整理を実施して労働争議が多発していました。
三鷹駅車両基地(現:車両センター)の無人列車が暴走して三鷹駅1番ホーム(南口側)を突っ切り脱線して死傷者を出した三鷹事件は1949年のことです。
■写真:三鷹事件現場(wikipedia)
そのような事件が多発する中で「国鉄職員の団結を!」と水面下でプロ野球参入計画が進められていました。無論、日本国有鉄道法の下、国鉄が直接球団運営するようなフリーハンドはもっておらず、外郭団体の財団法人交通協力会を主体にしての計画です。
そして気になる球団名は「国鉄スワローズ」。スワローズとは、戦前戦後~東海道新幹線開通に伴う廃止まで超特急と呼ばれた名門列車「つばめ」号に由来しています。おわかりの通り現在の「ヤクルトスワローズ」につながる系譜です。
この超特急「つばめ」号、1943年に戦争激化に伴って運行が一時中断していましたが、戦後1949年に「へいわ」号として復活、1950年に「つばめ」号に再び改称され、新たなスタートを切っています。
国鉄スワローズの新設、そして名門特急「つばめ」の復活、多発する労働争議、諸々が密接にリンクしていたのがこの時期の特徴です。また、このつばめ号、後の不朽の名作アニメ「銀河鉄道999号」と同型の機関車であり、大きな影響を与えていると言われています。
現在のヤクルトスワーローズは神宮球場を本拠地としています。ちなみに神宮球場の所有者は宗教法人明治神宮ですね。第二次大戦直後の神宮球場は隣接する代々木公園に駐留米軍住宅(ワシントンハイツ)が造成されたこともあり、GHQに接収されており、日本人が使用することが禁じられていました。
そもそも被災を免れた球場そのものが少なく、国鉄スワーローズも本拠地球場をどうするかで散々検討を重ねていた様です。
■写真出典:ワシントンハイツがそこにあった(個人ブログ)
http://homepage2.nifty.com/aquarian/Tokyo/Tky011028.htm
そんな折に財団法人交通協力会理事長である今泉氏が武蔵野グリーンパーク球場建設計画を知り、その計画推進者である松前氏と面談の折「(グリーンパーク球場を国鉄スワローズの)本拠地にしたいんだが」と打診しています。
松前氏としては球場経営を堅牢にするため打てる手は打っておきたいもの。できれば都心部と直結できる中央線の支線があれば、来場ハードルを下げることができる、と考えていたのかもしれません。当時の国鉄副総裁の天坊氏経由で加賀谷国鉄総裁に対して「三鷹駅から武蔵野グリーンパーク球場への路線建設をしてほしい」を働きかけた様です。
むろん、旧中島飛行機の引き込み線跡が活用できる点や、球場稼働に伴う旅客輸送など財政が厳しい国鉄にとっては筋の良い話であったと思われます。
球場の竣工が迫っていたこともあり、国鉄は京王帝都電鉄、西武鉄道が争う間隙を突いて着工、翌1951年4月14日に三鷹駅~武蔵野競技場前駅に「武蔵野競技場線(支線)」3.2kmを一気に開業(試合開催時のみの不定期運行)させます。輸送力を考慮して当時にしては長大な8両編成が組まれ、武蔵野競技場駅も長さ180mに及んだとか。
■写真出典:三鷹駅付近の武蔵野競技場線の分岐(武蔵野市議会報)
そして、球場そのものは両翼91.4メートル、中堅128メートル、収容人数も6万人近く、当時としては日本最大級の球場となりました。翌5月にこけら落としとなる国鉄スワローズ戦が開催されて、オープンとなります。この時は念願の都心からの直結列車も設定された様です。
■写真:現在も球場跡が何となく垣間見れるUR都市機構の緑町パークタウン
今から50年前、吉祥寺駅からバスで10分程度の場所に、日本最大級の球場がオープンしたという事実は、今からすれば少し信じられない話ですが、もし現存していたら吉祥寺のまちづくりや周辺の交通網にも大きな影響を与えていたことは間違いありません。
■出典:古紙蒐集雑記帖
昭和29年の国鉄営業局発行の鉄道線路図
http://blog.goo.ne.jp/isaburou_shinpei/e/2f4160018fe7f620043093eca257aa90
突然、第三勢力として現れた国鉄武蔵野競技場線。電光石火で開通に至り、西武鉄道も京王帝都電鉄も延伸計画の手綱を緩めざるをえなくなります。しかし京王帝都電鉄は諦めていません。それでも東久留米駅~吉祥寺駅間の延伸計画を模索していました。
次回に続きます。