第110回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(11)






1951年(昭和26年)9月8日

日米間で締結されたのがサンフランシスコ平和条約と安全保障条約です。日本の戦後安全保障のスキームが決定づけられた日ですね。この条約成立の立役者であり、安保条約締結に単独で臨んだのが吉田茂元首相です。また、この条約締結で沖縄は一定自治の元で米国施政下に置かれることが決まり、現在の普天間基地移設問題につながる長い闘争の歴史が始まっています。


さて、この吉田茂元首相による昭和29年6月の衆議院答弁は大変興味深いものがあります。今回はこの答弁で言及された「井の頭線の幻の延伸計画」について、みていくことにしましょう。








 



その答弁とは

内閣衆質第二五号(内閣総理大臣 吉田茂)

 
京王帝都電鉄申請の富士見ヶ丘、三鷹間は、現在東京陸運局において実地調査中であり、意見進達あり次第、資金及び工事計画を検討の上、運輸審議会に諮問する予定である
 

という内容。

この時の衆議院議長は「堤康次郎」議員、つまり西武鉄道の総帥でした。

昭和24年(1949年)1月31日に設立されたのが「京王帝都線乗入期成同盟準備委員会・都市計画産業開発委員会」。委員のメンバーは武蔵野市、三鷹町、田無町、保谷町の一市三町。久我山~三鷹~田無駅間の井の頭線延伸計画を促進する目的の委員会です。


2月9日の第一回委員会で議論されたのは「土地収用」でした。
























■写真出展:武蔵野市報(昭和62年3月)

しかし

前回の通り、東久留米駅への延伸計画は吉祥寺の商店会など井の頭線延伸「反対同盟委員会」の反対を受けます。昭和25年11月の運輸審議会公聴会では、井の頭線及び西武鉄道「武蔵野スポーツセンター線」の議論がなされるものの決着がつきません。その後の東京グリーンパーク野球場の不振や、鉄道事業者にとって投資効果の高い「路線バス」事業の興隆もあり、延伸計画そのものがとん挫しかかっていました。

結局、東京グリーンパーク野球場で開催された試合もプロ野球に限ればセリーグ12試合、パリーグ4試合のみ。日産土木さんの尽力による突貫造成工事で工程短縮を図れたものの、開幕後の試合は乾燥した砂埃に悩まされた様です。関東ローム層は粘質性の高い赤土ですが、もともとは火山砕屑物やその風成二次堆積物、つまり地表で乾燥すれば単なる砂塵に過ぎない訳ですから。

その後、国鉄武蔵野競技場線も休止路線となり、昭和28年頃には通勤運用に向けた再開検討もなされましたが、


・三鷹駅での通勤時間帯における本線との平面交差運用が難しい
・再開後の採算が厳しい
・京王電鉄との競争激化のため本線のスピードアップに向けた投資を優先

といった背景もあり、見送りとなりました。昭和33年には武蔵野市としても国鉄への通勤運用の要請を断念してこの話は終止符が打たれます。












 


また、東京グリーンパーク野球場計画の前の構想であった「競輪場」に戻そう、という計画も持ち上がりました。

その頃、武蔵野市は競輪の主催自治体。また競輪の路面はアスファルトまたはコンクリート舗装であり、砂塵の影響も緩和されます。そして、当時の競輪は国営競馬(現在のJRA)の控除率が34.5%であったのにし、競輪の控除率は25%と低く抑えられたため人気となっており、自治体にとっても貴重な財源でした。しかしその反面、八百長騒ぎや暴動も多発しており、あまり良いイメージでなかったため反対も大きかったのでしょうか。

結局、この計画も見送られ、関係者の尽力の介なく昭和31年には不遇の東京グリーンパーク野球場は解体されることになります。

この頃の東京郊外は戦後人口爆発の時期。昭和32年に武蔵野市の人口が10万人突破(100,368人)突破、住宅不足の深刻化もあり、解体直後に日本住宅公団が球場跡地の住宅建設に着手します。ここに日本最大級を誇った東京グリーンパーク野球場の歴史の幕は閉じることになります。

 

 















昭和29年1月22日

その少し前の時期、東京グリーンパーク野球場の不振から、中央線以北への延伸の意義を失っていた京王帝都電鉄ですが、同社から運輸省に地方鉄道敷設免許申請されていたのが冒頭の吉田茂元首相答弁にある「井の頭線 富士見ヶ丘駅~三鷹駅」間の延伸計画です。昭和28年に車両大型化のための井の頭線線路更新に合わせて、以前特集した「代田連絡線」も廃止される中、新たな時代を切り開くタイミングでの延伸といえるでしょう。

残念ながら、この路線延伸の背景の史料は多く残されていません。


ただし推測するならば、やはり背景としては「多摩郊外におおける人口爆発」「路線バスの興隆」にあるのではないでしょうか。




















■写真:1960年代の桜堤団地


昭和30年代初頭の団地(三鷹駅周辺)

 ①牟礼団地 竣工:1956年(昭和31年)

           → 現在:UR都市機構賃貸住宅 牟礼
 ②武蔵野緑町団地 竣工:1957年(昭和32年)

           → 現在:武蔵野緑町パークタウン
 ③桜堤団地 竣工:1959年(昭和34年) 

           → 現在:サンヴァリエ桜堤

武蔵野緑町団地は文字通り「東京グリーンパーク野球場」跡地に造成された団地です。牟礼団地日本住宅公団の関東最初の賃貸住宅団地です。現在は建て替えが進み、古い団地はすべて除却されましたが、日本住宅公団初期の団地にみられる星形住棟(スターハウス)も3棟ありました。


桜堤団地も昭和29年当時は計画が持ち上がり、昭和31年には武蔵野市、日本住宅公団東京支社、地元農民の間で土地買収の合意がなされ、玉川上水沿いの農地178776㎡を日本住宅公団が買収、着工にこぎつけています。




















 


■写真:スターハウス(ひばりが丘団地 保存棟)


これらの団地の計画人口は総計で2万人近くになり、路線バスのアクセスハブを三鷹駅として渋谷方面への吸引する計画であったのでしょうか。またその頃、武蔵野市と三鷹市は合併交渉の真っ最中(昭和30年:三鷹市議会で合併否決/交渉破談)でもあり、既存の吉祥寺駅商圏とは異なる新たな層の吸引ということでもあった為、武蔵野市としても前向きであったものと想定されます。

さてこの井の頭線「富士見ヶ丘線」。途中駅は5駅の計画でした。


<井の頭線富士見ヶ丘線の計画駅>

  富士見ヶ丘(井の頭線)
  久我山二丁目
  牟礼
  長久保
  下連雀
  西井の頭
  三鷹(JR中央線)







 













■資料:井の頭線富士見ヶ丘線(仮)のダイヤ(国立公文書館所蔵)


当初のダイヤ編成計画を見るとおおよそ30分に1本の割合で永福町と三鷹駅を往復する計画だった様です。当時の井の頭線の車両基地は永福町にありました(1970年に富士見ヶ丘検車区として移転)。

そしてこの計画、結局は井の頭線のさらなる延伸計画「富士見ヶ丘駅~西国立駅(国立線)」延伸計画に模様替えされ、免許申請は取り下げられることになります。そして国立線計画も昭和33年に申請取り下げとなり、東久留米駅~吉祥寺駅間の延伸計画も含めて、井の頭線の支線計画はすべて未成線として(建設されずに)終わることになります。

























■資料:京王帝都電鉄による免許申請取り下げ願(国立公文書館所蔵)

この背景に関する史料も少ないのですが、どの計画でも決定的だったのが「土地収用」の問題でしょうか。

昭和20年台(1940年代後半)の多摩地区の人口増加は都心部の空襲壊滅に伴う疎開移転に伴うものでしたが、昭和30年代(1950年台後半)になると、地方圏から大量の人口が流入する「向都離村」が活発化に伴うものが多くなります。


昭和39年(1964年)の東京オリンピックに伴う建設バブルでその傾向が顕著となり、一気に住宅開発が進むことになります。その様な中で鉄道延伸のための土地収用のハードルが一気に高まったのでしょう。













■内閣府
http://www5.cao.go.jp/j-j/cr/cr11/chr11040201.html


また、それに代わる様に路線バス事業は、その後に首都圏過密化による1970年代の交通渋滞の深刻化を経て、定時運行が困難となるまで黄金期を迎えることになります(以前、関東バス特集でふれましたが)。


■Blog de 吉祥寺 関東バス特集! 
http://www.kichijoji-city.com/2011/09/blog-de-1950-19501963-1949-1949-1950.html


さらに昭和30年に京王帝都電鉄は新宿~東八王子駅間で急行電車の運用を開始。駅周辺に住宅地を造成して、駅圏住民を路線バスでくまなく吸引、幹線のスピードアップを図りながら都心への速達を競う、という現在の私鉄ビジネスモデルが確立してくる様になります。








 













さて

戦後、難航の船出となった京王帝都電鉄の起死回生のリストラクチャリング策としてスタートした井の頭線の延伸計画。その後、かつて日本の陸海軍の主力戦闘機の製作を担い、当時は東洋最大の航空機会社であった中島飛行機武蔵製作所、GHQ占領下で立ち上がり忽然と姿を消してしまった日本最大級の東京グリーンパーク野球場、西武鉄道の総帥 稀代の経営者 堤康次郎氏との激戦、そして東京オリンピック開催に向けた東京圏の人口激増といった戦後期から復興過程でダイナミックに生じた荒波を経て、幻の計画として終わった訳です


仮にこれらが実際に完成していたとしたら、東京の南北交通や都心部の地下鉄網は、今とは異なった面を見せていたに違いありません。

ということで「井の頭線 幻の支線」特集は終わりです。次回は、最後にこれらの計画の夢の跡を追ってみることにしましょう。