第107回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(8)






多摩川競艇場

東京都府中市にある競艇場ですね。JRA東京競馬場のちょうど南東側にあります。ちなみにこの競艇、開催されているのは世界に2か国、日本と韓国のみ。世界的にもユニークな公営競技です。似たものに競馬がありますが、少し違うのは運営体制。競馬は日本中央競馬会(JRA)が管理し、日本中央競馬会法に則り、農林水産大臣監督の下で開催してます。


しかし競艇は、総理大臣に指定された自治体が仕切る事務組合による運営なんですね。多摩川競艇場では、指定自治体である青梅市主催のレースが開催されています。間接経費全額と収益の7%が自治体に還元される仕組みですが、青梅市は1953年の指定と前後して地方財政再建促進特別措置法の適用を受けており、財政運営の厳しい自治体支援の面もあるのでしょうか。
 

そして、多摩川競艇場の所有者は多摩川開発株式会社。運営会社は多摩川ボートシステム株式会社という企業でして、この2社の親会社こそ今回の主役である西武多摩川線の西武鉄になります。

■写真出典:GoogleMap(東京競馬場と多摩川競艇場) 














なお

多摩川沿いには「多摩川競艇場」、下流の京王電鉄京王多摩川駅近くには「京王閣」競輪場があります。一方、上流には「府中郷土の森」という公園があります。これらの共通項はもともと「砂利採取場」だった点。砂利採取した後の掘削穴を競艇場や競輪場に流用した訳です。

なお、府中郷土の森は、近くの武蔵野南線(貨物線)の稲城トンネルの掘削土砂で採取場を埋め立てて築造造園・整備されています。

■資料出典:1960年代の多摩川砂利採取場
 



























また、それぞれ西武多摩川線の他京王多摩川支線(1918年開業/京王閣、現在の相模原線の一部)国鉄下河原線(1910年開業~1976年廃止/府中郷土の森)といった砂利運搬専用の鉄道がありました。

以前、明治・大正・昭和の東京圏における人口増加を特集しましたが、この時代、道路舗装や鉄道整備などで大量の砂利が必要とされており、まさに「採ったら売れる」ビックビジネスでした。しかし、高度成長期に乱堀が問題視されて以降、1964年に禁止されています。


■Blog de 吉祥寺 閑話休題
http://www.kichijoji-city.com/2013/10/blog-post_26.html






















■資料出典:稲城市ホームページ


さて、砂利鉄道の起源をもつ西武多摩川線。多摩川河川敷に近い是政駅~武蔵境駅の間を結ぶ都下に珍しいローカル色あふれた路線ですが、ご多聞にもれず、かつてはこの路線にも、いわゆる幻の支線がありました。


戦前戦中に三鷹市にあった中島飛行機三鷹研究所への引き込み線がそれです。この時代の多摩の歴史には、いずれも「中島飛行機」の存在が否応なしに関わってきます。なお、この中島飛行機三鷹研究所は、戦後の同社解体後に売却され、その跡地に国際基督教大学(ICU)が開学(1953年)、富士重工業東京事業所にもなっています。





























さらに

ICU前身となる財団の名誉理事長として寄付金集めに尽力したのがGHQ最高司令官のダグラス・マッカーサーです。東洋一の軍需企業の敷地跡にキリスト教&リベラルアーツの大学を開学させるあたりが、いかにもアメリカ的ですね。

また、1980年にはICU敷地の一部(ゴルフ場)が売却され、「都立野川公園」整備されて一般開放されています。






















■資料出典:都立野川公園ホームページ

さて、この西武多摩川線の始発駅はJR中央線の武蔵境駅(武蔵野市)。実はかつて、この武蔵境駅から「幻の鉄道」が、北の方向にある中島製作所武蔵工場東京都水道局境浄水場まで伸びていました。後者は境浄水場の水濾過用の砂利運搬用途の貨物線として、そして気になる前者は軍需目的の路線でした。

つまり、中島飛行機三鷹研究所と同社武蔵製作所は1本の線路で結ばれていたことになります。今でいえば多摩川~国際基督教大学~武蔵境~武蔵野中央公園~田無まで鉄道で結ばれていたことになりますね。現存していれば多摩の貴重な南北交通になっていたはずです。



























これを裏付ける貴重な史料「University of Texas Libraries “Perry-Castaneda Library Map Collection”」で、そのことがわかります。

■資料出典:University of Texas Libraries

         “Perry-Castaneda Library Map Collection”
         http://www.lib.utexas.edu/maps/japan.html


 

そして 時は戦後の昭和24年10月。

京王帝都電鉄が吉祥寺駅北口の商店会や地主さんとの交渉を進めて、「吉祥寺駅~東久留米駅」間の井の頭線延伸計画に目途をつけかけていた頃、その計画により甚大な旅客数減少が見込まれた西武鉄道が鉄道省に申請した路線こそ「武蔵境駅~上石神井駅」間の西武多摩川線延伸計画、まさにカウンターパンチでした。

しかも前述の中島飛行機武蔵製作所の軍需線を流用すれば、計画実現性も高まり、上石神井駅車両基地の有効活用にも繋がり一石二鳥です。

























資料出典:西武鉄道申請路線想定図(Blog de 吉祥寺推定)

そして、この計画の背景を考える上で外せないのが、当時の西武鉄道の総帥である堤 康次郎氏です。


昭和7年に武蔵野鉄道(現 西武新宿線の一部)を、堤氏の経営する箱根土地株式会社(現在はコクド)が経営権を取得してその経営を継承、その後の昭和20年に、川越電気鉄道や、武蔵水電を起源とする西武鉄道(現在の西武池袋線)を合併して、「西武農業鉄道」と改称、鉄道、貨物、糞泥輸送など広範な経営に乗り出していた頃です。















■写真出典:堤 康次郎 Wikipedia

堤氏の経営者としての才覚は諸著で語られています。吉祥寺近傍で眺めれば、国立市、大泉学園、小平学園などの学園都市は堤氏によって拓かれた街といっても過言ではないでしょう。

国立駅から南に延びる学園通り(東京都道146号国立停車場谷保線)の緑地帯は現在でも西武鉄道グループのプリンスホテル所有地です。























また、1945年に武蔵野鉄道が西武鉄道を吸収する際、吸収される側の「西武鉄道」を社名として存続させた点は、現在のM&Aにつながる知見で、その経営才覚の一端を示すものでしょう。

■写真出典:街画ガイド/国立市学園通り
  http://komekami.sakura.ne.jp/archives/1795/p4036595


実は、この堤康次郎氏、1946年から1951年間は公職追放されていたのですが、追放解除後2年後の1953年に衆議院議長に就任した点や、公職追放期間中も西武グループの事業拡大が一貫して継続されており、実質的に経営を担っていたと言われています。1950年には西武多摩川線全線が電化され、延伸準備が着々進められていきます。









 


鉄道省としては同じ地域の路線延長は認めにくいところです。

京王帝都電鉄側の申請書には「西武鉄道の計画とは競合せず」と明記されはしました。ただ、どう見ても同じ地域の旅客を取り合うゼロサムゲーム的構図に変わりなく、省内の申請処理は膠着した様です。西武も京王帝都も路線の存亡をかけた争いですから、一歩も引く訳にはいきません。

しかしいつの時代も、膠着均衡のパワーバランスの隙をついて漁夫の利を得る第三勢力が現れるものです。

西武鉄道と京王帝都電鉄が正面衝突となる中で、第三勢力によるもう1つの異なる計画が着々と進められていました。

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