第102回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(4~緩和休題!)





















国立科学博物館

今回は緩和休題。時々の特集テーマに合わせて、その背景を少し掘り下げてみたいと思います。さて冒頭の写真は恐竜の骨格標本。すごい迫力です。これが設置されているのが、井の頭恩賜公園(1917年開園)の先輩筋にあたる上野恩賜公園(1876年)内にある国立科学博物館です。休日には多くの子供連れににぎわっています。足を運んだことのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 
ただし、あまり知られていないのが、その分園の存在。目黒区にある「国立科学博物館の付属自然教育園」です。目黒駅から徒歩ですぐ、上空から見るとぽっかりと緑が広がり、まさに都会のオアシスといった風情です。





































■写真出典:GoogleEarth

ちなみに

この国立科学博物館付属自然教育園、そもそも江戸時代は高松藩松平家の下屋敷でした。下屋敷とは別荘のことですね。以前も触れましたが、旧東京市内の山の手地域は大名屋敷が多いエリア。この松平家のお屋敷も例外なくその一つでした。

しかしこの松平家、宗家は水戸藩徳川家。明治維新を巡る尊王・討幕の戦いでは前者に名を連ね、1868年の鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府方についたせいもあり、明治維新後はあえなくお屋敷接収となります。ちなみにこれら大名屋敷、形式的には幕府から借りている(借地権)もので、大名に所有権はありません。余談ですが。
























ともあれ、明治時代に入り屋敷跡地は陸海軍の火薬庫や御料地に転換されます。しかし幸か不幸か一般人の立ち入りが制限されたせいもあり、手つかずの自然が残されました

ちなみに宗家の水戸藩、徳川御三家でありつつも、尾張・紀州徳川家の大納言待遇に対して、中納言待遇と一歩引きつつも栄華を誇った上屋敷も無論今は存在せず、跡地は小石川後楽園になっています。このあたりは以前の「玉川上水はなぜ四谷見附までひかれたのか」特集で触れました。

園内では「武蔵野植物園」というゾーンがあり往時の武蔵野の面影が再現されています。ぜひ皆さんも、よろしければ足を運んでみてください。


■出典:Blog de 吉祥寺 吉祥寺のガンジス~玉川上水
http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E5%90%89%E7%A5%A5%E5%AF%BA%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%82%B9%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4

■出典:再び、江戸時代の武士の生活(個人ブログ)
http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/3c9300de38c46973babd068810e73816

 

さて

このように国立科学博物館は多くのミッションがあるのですが、その一つが「古人骨」の収集分析。人類研究部という部署では古いガイコツを集めて、昔の人の生活・文化風習を研究しています。その数はざっと1万人分。所蔵されている人骨データベース検索システムも公開されていますね。マニアックですが。

遺跡出土人骨データベース
(国立科学博物館)
http://anthrodb.kahaku.go.jp/site/result


分析対象の一つが江戸時代の人々の生活。研究員の皆さんの研究成果から、実は江戸市民の身長は想定より小柄で栄養状態も悪かったという事実が明らかになりつつあります。男性の平均身長は150㎝半ば、栄養状態としては鉄分不足が目立ち、若い人骨も多く、たびたびの伝染病にも悩まされていた形跡がみられるのだとか。

そんな江戸時代から明治維新にかけての日本の人口は推計約3480万人(明治5年)。現在の1億2760万人(2012年)の約1/4でした。























しかし、の後の人口増加は目覚ましく、明治37年には4613万人と、約30年で1000万人以上増加します。そして今回の特集、井の頭線(当時の帝都電鉄)が開業(昭和9年)からほど近い昭和11年には6925万人と、明治維新からの70年足らずで約2倍に増加しています。俗にいう「人口爆発」です。



■資料出典:国土交通省
 

諸論はあると思いますが、明治の人口爆発の原動力化学肥料蒸気機関にあるとの説もあります。これらが食糧増産と流通を可能にし、結果として食糧需給と栄養状態が改善され、日本の人口収容力が一気に増加した、という説です。ちなみに両者が存在しないときの日本の人口収容力は江戸時代とあまり変わらない3100万人程度なんだとか。

さらに余談ですが、日本初の化学肥料の先駆けとなった企業は、明治20年に設立された「東京人造肥料会社(東京都江東区)」。この創設を支援したのが、当時の財界実業家の渋沢栄一氏。渋沢翁といえば、井の頭学校の創設者で初代校長であり、井の頭恩賜公園開園の立役者です(1906年)。

あと、渋沢栄一氏が1918年に設立した田園都市株式会社が、爆発的に増加する人口を収容するため都市郊外の理想的な居住環境を目指して開発を進めたのが、現在の目黒区・品川区・大田区にまたがる洗足田園都市。のちの東急電鉄による「田園調布」、そして第二次世界大戦後の多摩ニュータウン開発につながる郊外開発のエポックメイキングとなります。
























これら旧東京市南東部に広がる郊外から、渋谷を経て日本初の郊外型公園の「井の頭恩賜公園」への誘客も考慮された鉄道こそ、井の頭線(帝都電鉄)でした。まさに渋沢栄一氏の掌の上にあった、ともいえます。前回触れましたが、当初の帝都電鉄の計画ルートは、井の頭恩賜公園の西側、御殿山を抜けるルート。御殿山には先の井の頭学校がありました。まさに明治の大実業家である渋沢栄一氏ならではの壮大なプランであったといえるでしょう。


■出典:Blog de 吉祥寺「2017年に向けて!井の頭恩賜公園」特集
http://www.kichijoji-city.com/search/label/%E9%96%8B%E5%9C%92100%E5%91%A8%E5%B9%B4%EF%BC%81%E4%BA%95%E3%81%AE%E9%A0%AD%E5%85%AC%E5%9C%92




吉祥寺のある武蔵野市の人口を見ても、その爆発ぶりがうかがえます。









この人口増加率をみるに3つのピークがありますが、注目したいのは前と後の時期。1つ目は大正9年~昭和1桁の時代大正12年の関東大震災による家屋焼失とその後の復興計画により都心の収容力が低下して、郊外への人口流出を促し、当時の武蔵野町の人口が増加しました。井の頭線(帝都電鉄)開通が昭和8年ですから、まさにその頃といえるでしょう。

2度目は第二次世界大戦後すぐの頃。やはり東京大空襲で焼け出された人たちによる郊外に移住です。2011年3月の東日本大震災の際「吉祥寺も被災者・戦災者の街だから東北を応援!」と、多摩のブログサイト「たまりば」さんと共同企画したのは、こういった背景もありました。


■Blog de まとめ ハイライト編
http://www.kichijoji-city.com/2011/09/blog-deblog-de-httpkichijoji.html#more



 





























ちなみに、吉祥寺の街の原点は1657年の「明暦の大火」。江戸市中の2/3が消失するという業火で被災した吉祥寺門前の皆さんが、この地で幕府の農業経営施策の一環で一歩踏み出したのが吉祥寺村の始まりです。

ともあれ戦後の昭和20年代の人口爆発の時期こそ、まさに今回の特集の「井の頭線の幻の支線計画」の時代に他なりません。

今回特集している井の頭線の幻の支線計画


実はこういった明治維新後の産業革命に伴う人口爆発と、地震・戦争で焼け出された方=被災者移住という郊外発達への伏線が、鉄道ビジネスをベンチャーに仕立て、時にその大規模なリストラクチャリングを引き起こす底流になっていることを知っておくと面白いかもしれませんね。



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