第109回 井の頭線再び!かつての「幻の支線計画」を追う(10)















梅70

西武柳沢駅といえば吉祥寺駅から関東バスで約20分くらい、吉祥寺駅からほど近い西武鉄道の駅です。この駅に関するトピックといえば、キーワードは「梅70」都バス最強と言われる「西武柳沢駅前~青梅車庫」の系統です。全長32.7㎞東京都北多摩エリア5市一町を横断する最長路線でしょうか。

さて、このバス路線の原点は戦後すぐ、昭和24年に開設された「荻窪駅~青梅車庫」間の301系統にまでさかのぼります。以前、多摩地区郊外の「人口爆発」の特集をしましたが、戦後、空襲で壊滅的となった都心部から郊外移住が進み、相次いで長距離の郊外バス路線が開設されました。たとえば昭和24年の「新宿駅西口~八王子駅北口」間の302系も有名です。

吉祥寺駅を起点する路線だと「吉祥寺駅~江の島」間の路線バスが有名です。この路線は現在は縮小され「吉祥寺駅南口~調布駅北口」にその名残が残ります。急行でも観光バスでもなく、ごく「路線バス」の話です。

戦後~1950年代のまちづくりのトピックは、衛生面からの「上下水道の整備」。上下水道の整備に合わせて進められたのが「道路舗装」です。

路線バスの命は「定時」制。道路舗装で乗り心地が向上し、車の数はまだまだ少なく渋滞とは無縁の当時は、まさに路線バスの天下という訳です。そのような中で京王帝都電鉄が計画していた「東久留米駅~吉祥寺駅」間の延長計画はどうなっていったんでしょうか。

■写真出典:個人ブログ りそめぐ2011晩秋 都営バス最長路線[梅70]の旅
    http://megu-shiteguri.seesaa.net/

■参考:吉祥寺の大動脈!関東バスを追う~(9)
    http://www.kichijoji-city.com/2011/09/blog-de-1950-19501963-1949-1949-1950.html






昭和25年2月時点

での東京グリーンパーク野球場の事業計画をみると、

 ・読売巨人軍とフランチャイズ
 ・国鉄球団とフランチャイズ
 ・昭和26年3月末までに完成
 ・年間180試合想定


という強気な前提でした(昭和25年2月武蔵野市報)。開業1年半前のことです。















■写真出典:武蔵野市HP
  http://www.city.musashino.lg.jp/musashino_profile/hyakunenmonogatari/001791.html

その年の8月

夏の昼下がりの重要な会合が持たれます。出席者は、電気通信省電気通信研究所長財団法人日本文化住宅協会理事長富士産業(旧中島飛行機)武蔵野工場長株式会社東京グリーンパーク社長の松前重義氏の4名。

電気通信省とは、戦前の逓信省から郵政省・電波監理・航空管理行政を分離した後の部隊、つまり現在のNTTです。ちなみに松前氏は第二次大戦開戦時の逓信省工務局長でしたね。

この会合で決定したのは「国電(現在のJR)を三鷹駅から東京グリーンパーク野球場まで乗り入れること」「東京グリーンパーク以外のと土地には電気通信研究所、文化住宅を建築すること」の主に2点だった様です。

前者の電気通信研究所、戦後に米国のベル電話研究所を目指して基礎&応用の両面から研究を進められ、その後は日本屈指の通信技術研究機関となります。現在の「NTT武蔵野研究開発センター」です。


















■現在の武蔵野中央公園(中島飛行機武蔵製作所跡地)

一方、後者の文化住宅。

これは1950年代の集合住宅の呼称です。これまでの長屋やアパートとの違いは各戸にそれぞれトイレや台所が設置された点。それまでは1棟共用である場合が多く、そこから「文化的」に進化した、ということでしょうか。


















■写真:文化住宅の典型例

言わずもがな、これを原型として、核家族に対応すべく間取りを工夫・洗練させたのが後の「団地」であり、文化住宅はその「走り」です。この文化住宅計画こそ現在の「武蔵野二丁目アパート」「武蔵野アパート」につながります。





■参考:線路跡がうかがえる武蔵野緑町2丁目アパート敷地地図




















■参考:現在の武蔵野緑町二丁目アパート(1997年に建て替え)

この重要会談の後、8月15日の終戦の日に、合意された事業フレーム確定を見届けて富士産業は解散します。ここに戦前戦中と激動の時代を駆け抜けた中島飛行機武蔵製作所の歴史は幕を閉じることになります

そして国電(JR)は、大正13年に通水した境浄水場(東京都水道局東村山浄水管理事務所境浄水場)の砂利運搬用の引き込み線路盤を転用した「旧中島飛行機武蔵製作所」引き込み線を活かして、わずか2か月後の10月に試運転を実施、着々と新線開通準備を進めていきます。





■参考:現在も残る境浄水場砂利運搬線引き込み線の玉川上水橋脚跡


一方、国電が試運転を進めていたころ、京王帝都電鉄の井の頭線延伸計画は再び吉祥寺駅北口の商店会から猛烈な反対を受けて反対同盟委員長からの陳情書が社長宛に提出されるに至り、計画の行く末に暗雲が垂れ込めます

昭和25年11月の事ですね。














■参考:昭和30年ごろの吉祥寺駅空撮写真(毎日新聞社提供/昭和31年1月武蔵野市報掲載)

また11月30日には運輸審議会公聴会が開かれ、京王帝都電鉄、西武鉄道が出席、それぞれの主張を繰り返し、免許申請手続きも暗礁に乗り上げます。

運輸審議会の公聴会は、取扱い事案でも特に重要なものに絞って開かれることから、このことからも本件のモメ具合がうかがえるところです。年末迫る12月に京王帝都はルートを、一部変更して運輸省へ免許再申請を行います。

しかしその裏で昭和26年5月に東京グリーンパーク野球場が開場、京王帝都電鉄、西武鉄道に先立ち国電が都心直通電車を走らせるなどしています。









■写真:現在のJR中央線三鷹駅~武蔵境間 旧武蔵野競技場線分岐線分岐付近(右手)

その後の京王帝都電鉄と西武鉄道の延伸をめぐる係争を知る情報が不足しているのですが、それから3年後の昭和29年に東京都第7区(武蔵野市)選出の衆議院議員 並木芳雄氏から提出された「京王帝都電鉄と西武鉄道の延伸についてどのように考えるのか」という衆議院での質問主意書に対して、時の内閣総理大臣の吉田茂氏から

 ・運輸審議会に諮問中である
 ・これらの路線は近接し競願関係になっている
 ・計画に対して人家の移転、商店街の問題等強硬な反対公述がある


との答弁がなされました。

改めて競願との事実認識が呈され、当局手続きも地元の説得も共に進まず、両計画ともに成算の見込みが立っていなかった事がうかがえます。

しかし、郊外における交通網のあり方に少しずつ転機が訪れていました。

その頃から両社が力を入れ始めたのが「路線バス」事業でした。郊外では急速に宅地化が進み、線路を敷かずに認可があれば事業が始められる、まさに「(鉄道より)初期投資少なく、(郊外宅地化の進展で)収益多し」というウマみがあるビジネスに育ちつつありました。


















京王帝都電鉄は、昭和26年に一般貸切旅客自動車運送事業(観光バス事業)を開始、昭和30年には高尾自動車株式会社の買収を皮切りにバス事業を本格化させます。






















■京王バスの路線図(現在)

一方、西武バスは東京都区内や都下では都営バスと相互乗り入れ、埼玉県内では国際興業バスとの相互乗り入れという対照的な事業展開で路線拡充を図ります。ちなみに冒頭の「301系統」という荻窪駅~青梅車庫間バス路線も都営バスと西武バスとの相互乗り入れ路線として昭和24年に開設されました。

















■西武バスの路線図(現在)

そのような中で「中央線以北は西武、中央線以南は京王」という戦後の秩序=不文律が改め形成されてきたのでしょうか。



















■井の頭線延伸計画図(Blog de 吉祥寺推定)

その様な不文律の元、京王帝都電鉄も西武バスも路線延長も検討しつつも、既存路線からのバス路線の充実、住宅地の開発などの沿線価値の向上に力を注ぐ様になり、無理をして路線延伸を図らずとも、収益改善の兆しが少しずつ見え始めるようになります。

そして1951年、日本と連合国諸国間でサンフランシスコ講和条約が締結され、神宮球場が日本側に返還され、その存在感を失い、半ば閉場扱いとなっていた東京グリーンパーク野球場東久留米駅延伸の最大の原動力となっていた東京グリーンパーク野球場がこの状況でもあり、京王帝都電鉄は中央線以北への延伸の意義を失いモチベーションを落としていくことなります。

その様な中、「郊外宅地化」に目をつけた新しい延伸計画が浮上してきます。