第113回 閑話休題:井の頭公園の『掻い掘り(かいぼり)』をめぐる騒動を考える























掻い掘り(かいぼり)

今回(2014年)の都立井の頭恩賜公園での一騒動によって、一気にその名が広まったワードの一つでしょうか

この「掻い掘り」、すでに多くのメディアやブログなどで取り上げられており、詳細は割愛しますが、「井の頭池の池底」が姿を現すのは、まさに大正6年(1917年)5月1日の公園開園以来の出来事であり、井の頭恩賜公園を含むすべての都立公園で初の取り組みとなります。


写真:池底が姿を現した井の頭池(2014年1月)




さて、この「掻い掘り」の対象は、井の頭池のうち護岸壁崩壊リスクがある井之頭弁財天から狛江橋までを除くエリア約54000tの池水が2013年末から試験的に排水され、2014年1月中旬には池底が姿を現しました。
























水源水はバイパス送水管を経由して、公園の東端にある水門橋付近で放水され、神田川は枯渇することなく流れを保っています




ということで

無事に工程は進んで池水が排水されたのも束の間、池底から姿を現したものは、なんと「自転車をはじめとする多くのゴミでした。


























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<記事抜粋>

市民の憩いの場である井の頭恩賜公園(三鷹市、武蔵野市)の「井の頭池」が自転車のごみ捨て場になっていた。

水質浄化と外来魚の駆除を目的とした「かいぼり」のため、池の水を抜いたところ、池の底から多数の投棄自転車が姿を現した。その数は250台に上ることが28日、都西部公園緑地事務所への取材で分かった。 

記事出典:東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140129/CK2014012902000144.html?ref=rank

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もともと

平成16年の台風増水で池水が浄化した際、湖底に多数の自転車が投機されていることがわかり、東京都も相応の撤去予算を組んでいました。しかし今回の「掻い掘り」で姿を現したのは、その読みを遥かに上回る約250台。加えてバイクも4台。東京都も撤去予算を急遽増額することに。

それ以外にも花見で使われたと思われるカセットコンロ鉄屑ゴミ類建築資材OA機器なども捨てられており、そのほとんどは1987年に行われた「底泥浚渫」以降に投機されたものといわれています。

出典:「井の頭公園 まるごとガイドブック」(2008年/安田知代/株式会社文伸)




























さて、話は 井の頭恩賜公園の開園前 に遡ります。

この井の頭池、1917の開園前は「水源林」、そして「神田上水」を通じて、江戸または東京を支える貴重な水瓶の一つだったことは以前特集しました。その資産上の扱いは「御料林」、つまり皇室財産でした。背景には当時激化していた自由民権運動と政界重鎮「岩倉具視」氏の関与があったといわれています。

写真出典:明治時代の陸地測量図(井の頭恩賜公園がまだない頃の地図ですね)

参考:Blog de 吉祥寺
    2017年の開園100周年に向けて!井の頭公園の歴史を追う
      http://www.kichijoji-city.com/2012/10/2017100.html#more




近世以降、井の頭池の水質浄化活動として明治3年の水草除去が知られています。掻い掘りではないものの、記録に残る最初の取組みと言えるでしょう。

その後明治15年には水源涵養のため杉苗1000本が植えられました。もっとも、この頃は地下水脈を圧迫する可能性のある池周囲のマンションはなく、地下水脈からの湧水量も豊富で、水質は現在とは比べ物にならないほどに澄んでいたと言われています。池水の滞留期間も1週間弱と、現在の2~3週間に比べれば短く、新鮮な水であったといえるでしょう。






























余談ですが、明治3年の大規模な水草除去作業後、明治5年に「神奈川県第11大区4小区」に移管され、一時的に神奈川県だったこともあります。

写真出典:井の頭池について大久保利通内務卿から伊藤博文に対する「伺い」
       (所在地住所が神奈川県。水源保護についての言及がある) 東京都公文書館 所蔵


























明治時代の井の頭池をめぐる最大のトピックは1901年の「淀橋浄水場」開設です。神田上水と併走する「玉川上水」を原水とするこの浄水場の開設で、日本の都市水道の嚆矢たる神田上水は、その役割を終えることになります。

写真出典:東京都水道局



大正時代に入ると、稀代の経営者「渋沢栄一」氏と、多摩霊園を設計した東京都の公園設計主任技師たる「井下清」氏の出会いが訪れます。

この2人による両輪の尽力で、誰もが無理とあきらめていた宮内省から東京市への公園敷地(御料林)下賜が、「公園廃止の折は皇室に返還するように」との条件付で実現します

そして1917年、今から97年前に井の頭恩賜公園が開園となります。

























参考資料:宮内大臣から東京市長への下賜状(たぶん本邦初公開/東京都公文書館所蔵)


<井下清氏立案:公園計画案より>
「園内在来の樹木は、総て之を保護するのみならず、補植樹木も現在主と同種又は類似のものを用い、道路其他工事上支障とならざるものを可及的保存し、やむを得ざるものは移植し、、、、」


<開園時の井の頭恩賜公園案内図より>
「この地両村の若年労を励して業に従ひ、工成るや」


























写真出典:開園時の井の頭恩賜公園平面図(東京都公文書館所蔵)
       まだ吉祥寺通りがなく、玉川上水と一帯開発であることがうかがえます


地域の在来種の大自然を保護しつつ、地元の若衆が一致団結して造り上げたのが「井の頭恩賜公園」である点を思い出してみたいと思います。


  

100年弱 を経て

不法投機された多くの自転車やゴミが、かつて江戸・東京に住む多くの人々の生活を支えた上水源の汚濁に拍車をかけました。さらに、不用意に放たれた外来種の魚たちが、かつて公園設計者が意図した「地域の在来種保護」どころか、逆にそれら在来種を駆逐しつつありました

今回の「掻い掘り」で、それらの事実が明らかになりました。

























粗大ゴミ処理費用を払いたくなかった」「手近な井の頭池で釣りを楽しみたかった」「花見のあと酔っ払って思わず池にコンロを投げ込んでしまった」など、いろんな背景が想像されるところです。

そして、それらの公約数として「かつて」開園に向けて奮闘し、携わった多くの人達が井の頭恩賜公園に託した想いが失われてしまっている点がある様に思います。歴史は、その時代を生きた人々が、その日、その時、その場所で託した「想い」をより多く学ぶべきなのでしょう。決して年号史実の暗記のみならず。
























 <開園時のパンフレットより>

「東京市唯一の郊外公園となり以て欧米諸国の其れと相対せんとするに至れり。吾人は大いに本園を愛護し、益々その発展を計り以て理想の郊外公園たらしめんことを期す」
写真:井下清氏(東京都公園設計主任技師)



あらためて、当時の「開園に込められた想い」をもって、多くの人がこの「掻い掘り」を見守り、2017年を迎えられることを願って止みませんね。

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