第93回 吉祥寺の街が変わる!?進む再開発事業とは (5)
第32回オリンピック競技大会
東京への招致で盛り上がりを見せる2020年夏季オリンピック。開会式は日本時間2020年7月24日20時~23時に予定されています。来月9月7日(AGT)第125次IOC総会での開催都市決定が待ち遠しいところです。コンパクトで環境に配慮した開催を目指しているとのことで、残念ながら吉祥寺など多摩地区での主要競技計画は無い様ですが、開催決定となればミシュラン一つ星の吉祥寺・井の頭公園エリアにも多くの訪日客が来街することでしょう。
さて、その近代オリンピックの記念すべき初回開催は1896年のアテネ大会。そしてその頃の吉祥寺のトピックは「甲武鉄道 吉祥寺停車場」の開設です。時に1899年のことですから今から約100年前にさかのぼります。武蔵野村が開村したのが1889年ですから、その約10年後のことでした。
そんな訳で今回は、吉祥寺駅と南口の歴史を振り返ってみます。
<お知らせ>
日経新聞に掲載された興味深い、濃い記事です!
■ 日本経済新聞/東京ふしぎ探検隊
吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街
( 2013/8/23)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/
関連して、こちらもどうぞよろしければどうぞ!
■ Blog de 吉祥寺 「玉川上水編」
「神奈川県北多摩郡武蔵野村?」
http://www.kichijoji-city.com/2012/08/blog-post_9.html
「吉祥寺村は韮山県から神奈川県へ!」
http://www.kichijoji-city.com/2010/10/blog-post_7.html
■ 井の頭線延伸シリーズ
「番外編!井の頭線 新ひばりが丘駅編」
http://www.kichijoji-city.com/2010/09/httpkichijoji.html
「番外編!井の頭線 武蔵野競技場線編」
http://www.kichijoji-city.com/2010/09/blog-post_26.html
その吉祥寺停車場、開設までの道程は一筋縄ではありませんでした。
もともと、鉄道と五日市街道の交差点、宿場町の吉祥寺南町~本宿周辺に開設される予定であった吉祥寺駅。ところが蒸気機関車の煙害や火災を懸念した付近住民の皆さんの反対で、東寄りに約400メートル程ずらして、現在の場所に設置計画が変更されました。まだまだ鉄道による長距離移動の需要も少なく、市民権を得ていなかった時代のこと。当然といえば当然かもしれません。
■資料出典:yahoo地図
当初、その設置すら危ぶまれた吉祥寺停車場。しかし現在地に落ち着くに至った調整の立役者は月窓寺・蓮乗寺・光専寺といった吉祥寺駅周辺の寺社の皆さん。反対論がくすぶる中で、これらの寺社の皆さんから土地提供を受けて、なんとか現在地での開設に至ったんですね。無論、鉄道が市民権を得て、まちづくりの核になるということすら想像もつかない時代の話です。開業当初は駅利用者数も1日数人だったとか。
■写真:月窓寺(吉祥寺本町)
東京都下の良質な商業地の要件は、鉄道駅と主要道路の間が適度に離れている点。鉄道の駅~道路~後背地の住宅街の間の導線と際(きわ)に商業店舗が自然発生するのが一般的です。吉祥寺では特に月窓寺さんを初めとする寺社がしっかりとプロパティマネジメントを図ったおかげで、街の成り立ちを無視する様な無骨な再開発とは無縁に歴史を重ねてくることができました。
駅半径200mに商業集積が散らばって配置され、全体の回遊性を高めている点は吉祥寺の特徴なのですが、この点は行政主導でのまちづくりとは一線を画するところです。
概念的には、たとえば教会とその広場、そして周囲の城郭で形成される欧州のまちづくりに近いイメージでしょうか。ロンドン中心市街地のセントポール大聖堂とその広場、そして聖堂に由来したビュー・コリドー規制のそれをほうふつとさせます。時代によって方針がブレがちな行政。吉祥寺は、寺社の歴史の重みは日本のまちづくりの持続性に大切な役割を果たしている好例といえるでしょう。無論、ネガティブな点もあることも事実です。
■写真出典:wikipedia「セントポール大聖堂」
ともあれ、まさにこの歴史の積み重ねがあって、現在の吉祥寺駅北口の発展がある、といっても過言ではないでしょう。ちなみに現在、吉祥寺駅から東側の中道通り方面に伸びる「平和通り」ですが、その正式名称は「東京都道115号吉祥寺停車場線」。今も残る往年の名残です。
その一方で、吉祥寺駅南口はどうだったんでしょうか。
吉祥寺停車場開設から6年後の1905年、以前、Blog de 吉祥寺でも特集した「井之頭学校」~渋沢栄一翁が開設した非行少年の教育・救護施設ですが~が、吉祥寺の南側、玉川上水沿いに広がる御殿山に開設されました。むろんこの頃はまだ財界重鎮の渋沢栄一翁と東京市職員の井上技師との出会いは訪れておらず、当然、井の頭恩賜公園は存在していません。そして吉祥寺駅にも南口はありませんでした。その後、渋沢翁と井上技師との出会いを経て、「東京市唯一の郊外公園となり以て欧米諸国の其れと相対せんとするに至れり。」と謳われた井の頭恩賜公園が1917年5月に開園となります。
■資料出典: 旧帝国陸軍参謀本部陸地測量部_明治35年
その後、1923年に発生した未曾有の関東大震災を経て、被災した成蹊学園が池袋から吉祥寺に移設、被災者の移住もあって武蔵野町の人口が急増します。そして1933年(昭和8年)に持ち上がったのが「渋谷急行電鉄」計画。その後に吉祥寺駅と渋谷をつなぐ帝都電鉄(現在の京王電鉄井の頭線)計画となり、「急行」を意図した踏切を少ない開削・高架方式で建設されるに至りました。
そして当時の終着駅であった井の頭公園駅から吉祥寺駅へと路線が延長されたのが1934年のこと。そしてその延長工事に合わせて開設されたのが「吉祥寺駅南口」だったんですね。吉祥寺停車場開設から実に35年後のことです。
余談ですが
吉祥寺駅までの延期が1年遅れた理由は、実は吉祥寺駅にアプローチするための盛土の不足でした。井の頭公園駅から井の頭通りを超えて、JR吉祥寺駅を超える形で建設が計画された井の頭線。吉祥寺駅から北方向への路線延長を折り込んでいた訳ですが(以前特集しましたが、現在の西武池袋線ひばりが丘駅への延伸計画のことですね)、問題は井の頭公園駅からの吉祥寺駅へ上る盛土の確保。これが難航して開通が遅れていました。
しかし、帝都電鉄による各方面との交渉の末、当時「富士見ヶ丘」と呼ばれていた小高い沿線の丘を掘削して盛り土を確保することができました。今は丘もなく地名すらありませんが、幻の「富士見ヶ丘」は吉祥寺の程近く、井の頭線の駅名として残っています。今も残されていれば、丘の上からは世界遺産「富士山」が見えたことでしょう。井の頭線と吉祥寺駅誕生のエピソードの一つです。
■資料出典:yahoo地図
さて、そんな歴史を経て開設された吉祥寺駅南口。
その後、どのような歴史を経て今の姿に至ったんでしょうか。